1978年4月1日、明治神宮野球場でプロ野球開幕戦、ヤクルト×広島を外野席の芝生に寝そべり、ビールを飲みながら観戦中に小説を書くことを思い立つ[30]。それは1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが左中間に二塁打を打った瞬間のことだったという[30][31][32]。それからはジャズ喫茶を経営する傍ら、毎晩キッチンテーブルで書き続けた[33]。 1979年4月、『群像』に応募した『風の歌を聴け』が第22回群像新人文学賞を受賞。同作品は『群像』1979年6月号に掲載され、作家デビューを果たす。カート・ヴォネガット、リチャード・ブローティガンらのアメリカ文学の影響を受けた清新な文体で注目を集める。同年、『風の歌を聴け』が第81回芥川龍之介賞および第1回野間文芸新人賞候補、翌年『1973年のピンボール』で第83回芥川龍之介賞および第2回野間文芸新人賞候補となる。 1981年、専業作家となることを決意し、店を人に譲る。同年5月、初の翻訳書『マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集』を刊行。翌年、本格長編小説『羊をめぐる冒険』を発表し、第4回野間文芸新人賞を受賞。1985年、長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』発表、第21回谷崎潤一郎賞受賞。 1986年10月、ヨーロッパに移住(主な滞在先はギリシャ、イタリア、英国)。1987年、「100パーセントの恋愛小説」と銘うった『ノルウェイの森』刊行、上下1000万部を売る大ベストセラーとなる。1988年、『羊をめぐる冒険』の続編『ダンス・ダンス・ダンス』発表。 1989年10月、『羊をめぐる冒険』の英訳版『Wild Sheep Chase
デビュー、人気作家となる
1991年、ニュージャージー州プリンストン大学の客員研究員として招聘され渡米する。前後して湾岸戦争が勃発。「正直言って、その当時のアメリカの愛国的かつマッチョな雰囲気はあまり心楽しいものではなかった」とのちに述懐している[35]。翌年、在籍期間延長のため客員講師に就任する。現代日本文学のセミナーで第三の新人を講義、サブテキストとして江藤淳の『成熟と喪失』を用いる[注 6]。 1994年4月、『ねじまき鳥クロニクル』第1部、第2部を刊行。 1995年6月、アメリカから帰国。同年8月、『ねじまき鳥クロニクル』第3部を刊行、翌年第47回読売文学賞受賞。 1996年6月、「村上朝日堂ホームページ」を開設。1997年3月、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめたノンフィクション『アンダーグラウンド』刊行。それまではむしろ内向的な作風で社会に無関心な青年を描いてきた村上が、社会問題を真正面から題材にしたことで周囲を驚かせた。1999年、『アンダーグラウンド』の続編で、オウム真理教信者へのインタビューをまとめた『約束された場所で』により第2回桑原武夫学芸賞受賞。 2000年2月、阪神・淡路大震災をテーマにした連作集『神の子どもたちはみな踊る』刊行。この時期、社会的な出来事を題材に取るようになったことについて、村上自身は以下のように「コミットメント」という言葉で言い表している。「それと、コミットメント(かかわり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(かかわりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが」[36]「『ねじまき鳥クロニクル』は、ぼくにとっては第三ステップなのです。まず、アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、やがて、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです。そこの部分で、コミットメントということがかかわってくるんでしょうね。ぼくもまだよく整理していないのですが」[37]「コミットメント」はこの時期の村上の変化を表すキーワードとして注目され多数の評論家に取り上げられた。阪神の震災と地下鉄サリン事件の二つの出来事について、「ひとつを解くことはおそらく、もうひとつをより明快に解くことになるはずだ」と彼は述べている[38]。このため、短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収められている作品はすべて、震災が起こった1995年の1月と、地下鉄サリン事件が起こった3月との間にあたる2月の出来事を意図的に描いている[39]。 2002年9月、初めて少年を主人公にした長編『海辺のカフカ』を発表する。2004年にはカメラ・アイのような視点が登場する実験的な作品『アフターダーク』を発表する。 2005年、『海辺のカフカ』の英訳版『Kafka on the Shore
「デタッチメント」から「コミットメント」へ
2000年代の活動2005年、マサチューセッツ工科大学にて2009年、エルサレム賞授賞式にてエルサレム市長ニール・バルカット(左)と
2008年6月3日、プリンストン大学は村上を含む5名に名誉学位を授与したことを発表した[42]。村上に授与されたのは文学博士号である。
2009年1月21日、イスラエルの『ハアレツ』紙が村上のエルサレム賞受賞を発表[43]。当時はイスラエルによるガザ侵攻が国際的に非難されており、この受賞については大阪の市民団体などから「イスラエルの戦争犯罪を隠し、免罪することにつながる」として辞退を求める声が上がっていた[44]。村上は2月15日、エルサレムで行われた授賞式に出席し記念講演(英語)を行う[45]。スピーチ内容は全文が直ちにメディアによって配信され[46]、それを日本語に翻訳した様々な文章がインターネット上に並んだ[注 7][注 8]。