村上春樹
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活字になった河合と村上の対談は以下のとおり[注 25]

現代の物語とはなにか『こころの声を聴く―河合隼雄対話集』新潮文庫 .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-10-125223-0 初出: 新潮 1994年7月 91巻 260-282頁

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫 ISBN 978-4-10-100145-6 初出: 世界 1996年4月号 621号 257-280頁、1996年5月号 662号 210-235頁

「地下鉄サリン事件と日本人」現代 1997年7月号 31巻 28-41頁 話題の書『アンダーグラウンド』をめぐって 村上春樹、河合隼雄

河合隼雄氏との対話(『アンダーグラウンド』をめぐって 「悪」を抱えて生きる)『約束された場所で―underground 2』ISBN 978-4-16-750204-1 初出: 文藝春秋 1998年11月号 76巻 262-277頁「ポストアンダーグラウンド」をめぐって―麻原・ヒットラー・チャップリン

連続対談 河合隼雄x村上春樹 京都での対話(上)(下) 臨床心理学者と作家が語り合った2日間 フォーサイト新潮社) 2003年10月号[174]第14巻第10号通巻163号 52-57頁、2003年11月号[175]第14巻第11号通巻164号 52-58頁

安原顯
編集者(1939年4月29日 - 2003年1月20日)。安原は中央公論社で文芸誌『』や『マリ・クレール』の編集に携わった人物。村上が経営するジャズ喫茶の客で、『風の歌を聴け』が出版される1979年以前より交流があった[176]。「中国行きのスロウ・ボート」を『海』1980年4月号に掲載する際、初めて書いた短編小説であるにもかかわらず、安原から書き直しは一切要求されなかったという。「細かい実務的な作業は、この人の好むところではないようだった」と村上は述べている[177]2003年1月20日肺がんのため死去した。村上は 2006年3月10日発売の『文藝春秋』4月号に、『ある編集者の生と死――安原顯氏のこと』と題するエッセイを発表。自身の直筆原稿が本人に無断で、安原によって流出させられ、東京神田神保町古本屋や、インターネットオークションで販売されていることを述べた。「基本的な職業モラルに反している(中略)のではあるまいか」「それら(注・安原ルートで流出した自筆原稿)が不正に持ち出された一種の盗品であり、金銭を得るために売却されたものであることをここで明確にしておきたい」[178]とコメントをしている。この発表は各方面に大きな波紋を広げ、出版業界にはびこる「自筆原稿の流出」という、半ば公然の闇の事態が明らかとなった。安原が故人であったため「死者に鞭打つような仕打ち」と一部で批判する者もあったが、村上はこのような事態が、彼に関してのみならず、多くの作家に関しても未だに行われていることを指摘しつつ、誰かが声高に叫ばなければ、流出によって傷つけられる、生きている者たちの痛みはなくならないのではないか、と反論している[179]。なおこれら一連の動きから、明確な意思表示がない限り「生原稿は作家の所有物である」との確認が日本文芸家協会によって行われ、「生原稿『流出』等についての要望[180]」としてまとめられものが、関係各所へと配布された。
村上龍
小説家(1952年2月19日 - )。群像新人文学賞受賞によりほぼ同時期にデビューを果たしたこと(龍は1976年、春樹は1979年)、年齢が比較的近いこと(春樹が3つ年上)、いずれも人気作家となったことなどから二人は「W村上」としばしば呼ばれる。両者を論じた評論『MURAKAMI龍と春樹の時代』(清水良典著、2008年)もある。龍は学生時代、春樹の経営する「ピーター・キャット」に通っており、デビュー前からの顔見知りであった[20]。初期には互いのエッセイで頻繁に言及しあっており[181][182]、1981年には対談集『ウォーク・ドント・ラン』を出版した。同年夏、春樹は龍からアビシニアンの子猫を譲り受けている[183]。龍の3作目の長編小説『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年10月刊行)に刺激を受け、『羊をめぐる冒険』を書いたことは春樹本人が様々な媒体で語っている[184][185]。春樹は『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の中で、龍が「最初から暴力というものを、はっきりと予見的に書いている」という点で鋭い感覚を持った作家だと評価したうえで、自分は「あそこへ行くまでに時間がかかるというか、彼とぼくとは社会に対するアプローチが違う」と述べている[186]
年譜

年号主な出来事文学賞受賞・候補
1949年1月12日、京都府京都市伏見区で生まれる。
1955年(6歳)西宮市立浜脇小学校入学。
1961年(12歳)西宮市立香櫨園小学校卒業。
1964年(15歳)芦屋市立精道中学校卒業。
1967年(18歳)兵庫県立神戸高等学校卒業。
1968年(19歳)早稲田大学第一文学部に入学。和敬塾に入寮[注 26]
1971年(22歳)10月、高橋陽子と結婚。
1974年(25歳)国分寺にジャズ喫茶「ピーターキャット」を開く。
1975年(26歳)早稲田大学第一文学部演劇専修を卒業。
1977年(28歳)「ピーターキャット」を千駄ヶ谷に移転。
1979年(30歳)処女長編小説『風の歌を聴け』を出版。『風の歌を聴け』が第22回群像新人文学賞を受賞。
また、第81回芥川賞と第1回野間文芸新人賞の候補となる。
1980年(31歳)『1973年のピンボール』が第83回芥川賞と第2回野間文芸新人賞の候補となる。
1981年(32歳)「ピーターキャット」を友人に譲り、小説家業に専念。
最初の翻訳書『マイ・ロスト・シティー』を出版。
1982年(33歳)『羊をめぐる冒険』が第4回野間文芸新人賞を受賞。
1983年(34歳)最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』を出版。
1985年(36歳)『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が第21回谷崎潤一郎賞を受賞。
1986年(37歳)10月、ヨーロッパへ渡る。
1990年(41歳)1月、ヨーロッパ滞在より、帰国。『TVピープル』が第17回川端康成文学賞の候補に上がる。
1991年(42歳)1月、米国のプリンストン大学客員研究員として招聘される。
1992年(43歳)客員講師として大学院で週にひとコマのセミナーを1年間担当。
1993年(44歳)タフツ大学に移籍。
1995年(46歳)5月、4年間にわたる米国滞在を終え帰国。
1996年(47歳)6月、「村上朝日堂ホームページ」を開設。『ねじまき鳥クロニクル』が第47回読売文学賞を受賞。


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