李舜臣
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^ 三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をした。[18]
^ 「流れ弾」について『韓国通史』P.285(乙酉文化社史2003年改訂版18刷)では「露梁海上で日本軍の退路を塞いで殲滅しようとした李舜臣は不幸にも流れ弾に当たって戦死してしまった」とする[20]
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原文
十月。劉提督再攻順天賊営。統制使李舜臣。以舟師大敗其救兵於海中。舜臣死之。賊将平行長。棄城而遁。釜山蔚山河東沿海賊屯悉退。時行長築城干順天居?橋堅守。劉?以大兵侵攻不利。還順天。既而復侵攻之。李舜臣與唐将陳?。扼海口以逼之。行長求援於泗川賊沈安頓吾。頓吾従水路来援。舜臣進撃大破之。焚賊舟二百餘艘。殺獲無算。追至南海界。舜臣親犯矢石力戦。有飛丸中其胸出背後。左右扶入帳中。舜臣曰。戦方急。慎勿言我死。言訖而絶。[21]

舜臣は、進撃して大いにこれを撃破し、賊船二百余艘を焼き払い、数えきれないほどの賊を殺獲し、(賊を)追いながら南海との界(=露梁)にまで至った。舜臣は危険をものともせず、みずから力戦していたが、飛来した弾丸がその胸に命中し背中に抜けた。左右の者が帳中に扶け入れた。舜臣は『戦いはまさに切迫している。くれぐれも私の死を知らせぬように』と言い、いい終わるや息絶えた。」[22]
^ a b 島津光久家老であった島津久通が、寛文11年(1671年)に編纂した文禄慶長の役の顛末を記した書物。
島津久通. “ ⇒征韓録”. 鹿児島大学附属図書館コレクション・玉里文庫. 2013年12月11日閲覧。
^ 權慄と元均とは同列である。
^ 貝原益軒の序文と朝鮮地図を付け加えて元禄8年(1695年)に京都の大和屋伊兵衛により日本語版が出版されている。
^ 文禄・慶長の役を題材にしたフィクションであり、作者・執筆年代の詳細は不明。李舜臣と高僧達が日本まで踏み込んで行き、道術で日本国王を降参させ悔悛させるという内容。ハングルで書かれたものと漢文で書かれたものがある。稀覯本であり、この物語が朝鮮民衆に広く流布していたという学術上の検証はない。
^ 最初期の研究には木下真弘「豊太閤征外新史」(1893年)や北豊山人「文禄慶長朝鮮役」(1894年)があり、1908年には申采浩「水軍第一偉人 李舜臣傳」(独立運動研究所)、1931年に崔南善「壬辰乱」(東明社)がある[26]
^ 前述のように朝鮮水軍の一将にすぎない李舜臣が倭乱鎮定のすべての功績を担ったわけではないが、次第に彼の役割が実際よりも大きく扱われるようになった。
^ 1923年 2月に朴殷植(朴殷植)が編著して発行した『救国の名将李舜臣』。
^ 「あなたのお国の李舜臣将軍は私の先生です。(中略)自分はネルソンに比べられるかも知れない。しかし李舜臣は私を越えている」[34]
^ 安藤彦太郎寺尾五郎宮田節子吉岡吉典(編)『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』(日本朝鮮研究所、1964年。ASIN B000JAF9VG)にも記述が見られるが、こちらの一文については肝心の起筆者が不明で、誰から聴取したのか聴取元も不明という状態である。
^ 詩人金素雲は、日本海軍の鎮海司令部では毎年李舜臣をお祀りしていたと記述している[36]

出典^ “ ⇒?????? 。?? 。?? ??? ???????? ??? ???-?????”. www.kcna.kp. 2022年8月15日閲覧。
^ Yi Sun-shin Korean admiral Encyclopadia Britannica
^ 海戦p46,世界戦史研究会,2011年
^ a b 徳富猪一郎『国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣氏時代 丁篇 朝鮮役 上巻』 第7、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、630-639頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223744/334 国立国会図書館デジタルコレクション。 朝鮮史編修会(漢文調)『国立国会図書館デジタルコレクション 朝鮮史. 第四編第九巻』朝鮮総督府、1937年、468-469頁。
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