李白
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また、李白が宮廷を辞した理由については諸説あり、同僚の讒言に依るものであるとする文献も存在するが、その場合でも讒言者は高力士ではないとされる[37]

また、李白が無名時代の郭子儀を罪から救い、それに恩義を感じた郭子儀が永王の乱に加担した李白の救命を嘆願したとの話も、裴敬による墓碑にすでに記載があり、そこから旧唐書新唐書にも記載がなされたものの、後世の考証によりやはり事実ではないとされている[38]

李白には上記の伝説以外にも様々な伝説が伝わり、後世『三言』などの小説において、盛んに脚色された。
家族

李白の家族に関する記述は少ない。先述の通り、李白は許夫人との間に2人の子をもうけたが、夫人とは後に死別したとされる。その後、南陵の劉氏を娶ったが、これは後に離婚したと考えられている。さらに東魯の某氏を側室に迎え、その間に末子の李天然を儲けたと言う。また50歳を過ぎて、洛陽で中宗の宰相であった宗楚客の孫娘の宗氏を継室として娶ったという。


許氏 - 高宗期の宰相の許圉師(許紹の末子)の孫娘
[10]

劉氏 - 南陵の名家の娘[39]

某氏 - 姓は不詳、東魯の人。李天然の生母以外は不詳[12]

宗氏 - 中宗期の宰相で詩人の宗楚客(? - 710年、字は叔敖)の孫娘[40]

子女

李伯禽(? -
792年?) - 幼名は明月奴、生母は許氏[10]。父の後を継ぐ。

李天然 - 幼名は頗黎。生母不詳(東魯の某氏の娘)[12]

李平陽 - 生母は許氏、伯禽の同母姉[10]。嫁ぎ先で間もなく早世[41]

詩の特徴

李白の詩は、六朝以来の中国詩歌の世界を集大成したものとされる。「蜀道難」「将進酒」「廬山の瀑布を望む」「横江詞」などに見るダイナミックでスケールの大きい豪放さ、「玉階怨」「静夜思」の清澄で繊細な世界、「山中にて俗人に答ふ」「月下独酌」「山中にて幽人と対酌す」などに見える飄逸で超俗的な雰囲気など、詩の内容は多彩で変化に富んでいるが、総じて変幻自在で鮮烈な印象をもたらす点が特徴的である。得意とする詩型は、絶句楽府であり、とりわけ七言絶句にすぐれる[42]
主な版本唯一現存する李白の真筆(北京故宮博物院所蔵)

宋蜀本『李太白文集』 - 30巻。北宋期の刊本を南宋初期に覆刻したもので、現存する最古の版本。静嘉堂文庫蔵。清の繆曰?が校正重刊したものがあり、これは「繆本」と呼ばれる。

『景宋咸淳本李翰林集』 - 30巻。代に覆刻された南宋咸淳5年の刊本を、清の光緒34年に影印刊行したもの。上の「宋本」とは別系統のテキストで、分類・編次が異なる上、本文にも異同がある。

『分類補注李太白詩』 - 25巻。別名『分類補注李太白集』。南宋の楊斉賢の集注本にの蕭士贇が補注を加えたもの。現存する最古の注釈書。詩が題材と表現の形式によりつぎの21類に分けられる。古風、楽府、歌吟、贈、寄、留別、送、酬答、遊宴、登覧、行役、懐古、閑適、懐思、感遇、写懐、詠物、題詠、雑詠、閨情、哀傷[43]

『李太白文集輯註』 - 36巻。別名『李太白全集』。清の王gによる注釈書。上の『分類補注本』や明の胡震享の『李詩通』などの先行する注釈書・関連資料を集大成したもの。

なお、李白のはたったひとつ、「上陽台帖」のみが現存しているとされる。上陽台帖は中華民国期の収集家である張伯駒が入手した後、毛沢東に寄贈され、さらに1958年に北京故宮博物院に移管されて、現在も故宮博物院の所蔵品となっている[44]
主な作品

秋浦歌 其十五(秋浦の歌 其の十五)
原文書き下し文通釈
白髮三千丈 白髪 (はくはつ)三千丈私の白髪は秋浦より望む揚子江のように三千丈もあろう
縁愁似箇長愁に縁りて箇(かく)の似(ごと)く長し憂愁の末にこんなにも長くなってしまった
不知明鏡裏知らず 明鏡の裏 明るく澄んだ水鏡の中
何處得秋霜 何れの処にか秋霜を得たるこれほどに真っ白な秋の霜、一体どこから降ってきたのだろうか

 

早發白帝城(早に白帝城を発す)
原文書き下し文通釈
朝辭白帝彩雲間朝に辞す白帝 彩雲の間朝早くに美しい色の雲がたなびいている白帝城を出発し
千里江陵一日還千里の江陵 一日にして還る千里離れた江陵まで一日でかえれるのだ
[注釈 5]
兩岸猿聲啼不住[注釈 6]両岸の猿声 啼いてやまざるに両岸の哀しい猿声が啼きやまないうちに
輕舟已過萬重山軽舟已に過ぐ 万重の山軽やかな小舟は幾万に重なる山々の間を一気に通過してしまった

 

靜夜思(静夜思)
原文書き下し文通釈
牀前看月光[45]牀前 月光を看る寝台の前に射し込む月の光をみる
疑是地上霜 疑らくは是れ地上の霜かとこれは、地上に降りた霜ではないかと疑うほどだ
擧頭望山月[45] 頭を挙げて 山月を望み頭をあげて山に上る月を望み
低頭思故郷 頭を低れて 故郷を思ふまた頭を垂れては故郷に思いをはせる

その他

關山月

李白と杜甫

李白と杜甫は中国最高の詩人として並び称される存在であり、また李白は杜甫より11歳年長であるもののほぼ同時代人である。この2人は744年に洛陽で出会い、意気投合して山東や河南を中心に1年半ほど同行して周遊し、深い交友を結んだ。翌745年に魯郡で別れたのち再び会うことはなかったが、とくに杜甫は李白のことを後年になっても懐かしみ、李白に関する20首近くの詩を残している。これに対し李白の杜甫に関する詩は4首で、詠んだ時期は2人の別れの時期に集中している[46]

李白の評価が生前から非常に高かったのに対し、杜甫は李白を含む一部の詩人からの評価は高かったものの、生前は世間一般からの評価は必ずしも高いものではなかった。しかし中唐以後、白居易元?らによって杜甫の再評価が行われ、以後この2人が大詩人として並び称されるようになった[47]


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