李白
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天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動を続けたことから宮廷人との摩擦を引き起こし、744年、宮廷を去って長安を離れることとなった[17]
再度の放浪

長安を去った李白は、744年に洛陽で杜甫と出会って意気投合し、1年半ほどの間、高適を交えて山東・河南一帯を旅するなど彼らと親しく交遊した[18]。魯郡で杜甫と別れたのち、しばらく東魯にとどまっていたが、746年には南方へ向かい、750年まで4年にわたり江南を周遊した。東魯に戻ったのち、751年には北方の幽州を訪れ、翌752年にいったん東魯に戻ったあと、宣州や当塗など現在の安徽省南部を中心に江南を周遊している[19]753年には、前年に阿倍仲麻呂が日本への帰国途中、遭難して死去したという知らせ(誤報)を聞き、「晁卿衡を哭す」を詠んでその死を悼んでいる[20]
晩年安徽省馬鞍山市当塗県にある李白墓。

安史の乱勃発後の756年至徳元載)、当時、李白は廬山に隠棲していたが、玄宗の第16子の永王李?の幕僚として招かれた[21]。だが永王は異母兄の粛宗が玄宗に無断で皇帝に即位したのを認めず、粛宗の命令を無視して軍を動かしたことから反乱軍と見なされ、将軍の皇甫?と高適の追討を受けて斬られた。李白も捕らえられ、潯陽(現在の江西省九江市)で数カ月獄に繋がれた。その後、崔渙・宋若思(宋之問の甥で、李白の旧友宋之悌の子)の助力により釈放され、宋若思の幕僚となるが、結局は粛宗の朝廷側から夜郎(現在の貴州省北部)への流罪とされた[22]。配流の途上の759年乾元2年)、白帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還することになる。この時の詩が「早に白帝城を発す」である[注釈 4]。赦免後の李白は、長江下流域の宣州(現在の安徽省南部)を拠点に、再び各地を放浪し、762年宝応元年)の冬、宣州当塗県県令李陽冰の邸宅で62歳で病死した[23]

李白は当初、死去した宣州当塗県の竜山東麓に葬られ、死後50年ほど経った817年に范伝正によって同じく当塗県の青山西麓へと改葬された。この李白墓安徽省馬鞍山市当塗県の青山西麓に現存する[23]。また、李白が幼年期から青年期を過ごした四川省江油市には李白記念館が建設されており[24]、730年代に居を定めた湖北省安陸市にもさまざまな李白の古跡とともに安陸李白記念館が存在している[25]
人物

李白の声名は生前から非常に高く、詩人として高く評価されていた[26]。李白は多作であり、生涯に1万首ほどの詩を詠んだが、現存するのはそのうち1000首ほどとされる[27]

李白は「酒仙」とまで呼ばれるようにを愛したことで知られ、飲酒を礼賛した詩を数多く詠んでいる[28]。杜甫は李白をはじめとして賀知章、李?、李適之、崔宗之、蘇晋、張旭、焦遂という当代の酒豪8人を飲中八仙として取り上げ、「飲中八仙歌」のなかで歌い上げた[29]

李白は道教に傾倒しており、放浪中にも各地の道士と交友を深めていて、長安での出仕もこの道士の人脈によるものとされている[12]。さらに朝廷を致仕した744年には符?を受け、正式に道士の資格を得ている[12]。こうした道教への傾倒と神仙への憧れは、李白の作品にも強い影響を及ぼしている[30]

この時代の人材登用にはすでに科挙が導入されており、唐代の文人のほとんどは科挙に及第するか、及第まではせずとも受験した経歴があるが、李白には科挙を受験した形跡が全く見られない。これは、当時の科挙は商人の子弟および外国人は受験資格がなく、李白がこれに抵触したためであると考えられている[31]。李白本人は官僚として立身する意欲が強く、蜀にいるころから盛んに大官に売り込みを行い仕官を目指した[32]が、ほとんどはうまくいかなかった。
伝説酔った李白は高力士に靴を脱がせて恨みを買ったという伝説があるが、事実ではない

有名な伝説では、采石磯(現在の安徽省馬鞍山市雨山区)にて船に乗っている時、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したと言われる。この伝説は宋代のはじめにはすでに形成されていたとされるが、上記のように実際には当塗県にて病死した記録が残っており、事実ではない[33]。ただしこの説は広く流布し、さらに采石磯が水神信仰と深い関係がある土地だったことから、李白は水神と結びつけられるようになった[34]台北市龍山寺には多くの神々の中の一柱として水仙尊王という水神がまつられており、その従神の1人として李白もまた祀られている[35]

李白の宮廷時代についてもさまざまな伝説が残されている。酔った李白が宴会で高力士に靴を脱がせ、それを恨んだ彼に讒言を受けて宮廷を追放されるという伝説も著名であり、すでに中唐の時期にそうした記述は見られるが、そもそもそうした宴会での事実はない[36]。また、李白が宮廷を辞した理由については諸説あり、同僚の讒言に依るものであるとする文献も存在するが、その場合でも讒言者は高力士ではないとされる[37]

また、李白が無名時代の郭子儀を罪から救い、それに恩義を感じた郭子儀が永王の乱に加担した李白の救命を嘆願したとの話も、裴敬による墓碑にすでに記載があり、そこから旧唐書新唐書にも記載がなされたものの、後世の考証によりやはり事実ではないとされている[38]


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