台湾第四原子力発電所について、2013年4月に李登輝ははっきりと核四の住民投票に行くことはないと表明し、「もし原子力発電を維持できなければ、台湾の未来はどこへ行くのか? 風力や太陽エネルギーでエネルギー源を置き換えようとするのならば、これらの代替エネルギーは「コントロールする術が無く」、不安定過ぎて台湾の電力需給に応えられない」、「原子力発電方式は改変すべきであり」と語り、人民の台湾電力および政府に対する信頼の欠如に至っては、「台湾電力は民間に開放すべきで、例えば6社の民営電力会社に分割して小規模で進めれば、このように大きな問題は発生することはあり得ない」と主張した[65]。
2012年4月から、「生命之旅」と称して台湾各地を視察する旅に出ている。どんな姿であれ、最後は玉山(旧称・新高山)で終わりたいという胸の内を周囲に語っている。
2013年12月、台湾で同性婚を容認する多元成家法案に対し、「私はキリスト教徒だ。聖書に何と書かれているか見てみるべきだ」と発言し、反対の立場を表明した[66]。2016年12月には「我々の社会は自由があるだろう。男女は自由だし、どう自由にしても構わないが、家庭が必要なら子供を産むのも必要だという関係だ。家族の継続は十分に維持されなければならず、宗教上私の立場ではどうしても同意しない」と語った[67]。
2016年7月30日、石垣島を訪問し、台湾農業者入植顕頌碑などを参観し、日台交流について講演した[68][69]。訪問の際に食べた石垣牛の美味しさに感動し、台湾和牛の産業化を研究し始め、陽明山フ天崗で戦前移入された但馬牛(見島牛とも)の末裔の牛を購入し、若い頃働いていた花蓮の牧場施設を借り育成事業を開始[70][71]。初めて繁殖に成功した仔牛を「源興牛」と名付けた[72]。
2020年2月、自宅で牛乳が気管に入ったことで誤嚥性肺炎となり入院。7月に入って体調が急激に悪化。同月29日には蔡英文総統、頼清徳副総統、蘇貞昌行政院長らが見舞いに訪れた[73]。翌30日19時24分頃、入院先の台北栄民総医院で死去[74][75]。97歳だった。
2020年10月7日に、告別追悼礼拝を新北市淡水の真理大学大礼拝堂で行い、その後、国軍管轄施設である国軍示範公墓(中国語版)内の「特勲区」に遺骨を埋葬された[76]。「李登輝の死と葬儀(英語版)」を参照 司馬遼太郎や小林よしのりとの対談でも時間を忘れるほど熱心に語る雄弁家である。新婚時代、新妻に対しても遠慮なく農業政策を語り続けたため、農業には無知だった夫人も話を合わせるために農業を勉強したという。 李登輝は中国の政治家を全面否定するわけではなく、胡錦濤やその後続世代の習近平、李克強を「地方で鍛えられた優秀な政治家」と高く評価し、日本の政治家を「東京や法律でしかものを考えられない人ばかり」と批判していた[77]。 中学・高校時代に鈴木大拙・阿部次郎・倉田百三・夏目漱石らの日本の思想家や文学者の本に触れ、日本の思想から影響を受ける。また、日本の古典にも通じており、『古事記』・『源氏物語』・『枕草子』・『平家物語』などを読む[78]。宗教に関しては、キリスト教長老派を信奉した[79]。また、台湾総督府民政長官を務めた後藤新平を「台湾発展の立役者」として高く評価していた[80]。 ちなみに、若手育成のために開いた「李登輝学校」の卒業生らが、李登輝が漫画『魁!!男塾』の登場人物の江田島平八[81]に似ているということで、PR向けに江田島平八のコスプレを行ったことがある[82]。これについて、主に国民党議員から「日本びいきだ」、「植民地支配肯定」などとの批判が起きた。 熱心なキリスト教徒で、総統退任後は「山地に入りキリスト教の布教をしたい」と語っていたが、さらなる民主化のため「台湾団結同盟」を自ら主導して創立した。また、『旧約聖書』の「出エジプト記」についてよく話していた。[83] 台湾の同世代に顕著なことだが、かつて政府の要職を経験していながら一番得意とされる言語は日本語といわれる。それについで台湾語、英語となり、一番苦手なのは北京語で、非常に台湾訛りが強い。北京語で質問されると、それを日本語に訳して意味を理解し、日本語で回答を考えてから北京語に訳すという、日本人と同様のプロセスで返答していたことから、外省人の記者たちからは「李登輝の北京語は、どうしてあんなにめちゃくちゃなのか」と言われていた[31]。この不得手さを逆手にとって、宋美齢の側近に「宋美齢の北京語は浙江訛りが強いため、今後用件は文書で送付するように」と要請、発言を記録化し宋美齢の権力を失墜させた。 上記のように、日本文学を多く読み、岩波文庫の蔵書数を誇ったり、日本のオピニオン雑誌『中央公論』『文藝春秋』を愛読するなど、情報処理や思考の面で多く日本語が介在したとされる。そのため、記者会見など公の場でも特定の単語を日本で使用される呼称をそのまま現地語で発音することがあり、台湾では「波斯(ペルシア)湾戦争」と表記される湾岸戦争を「湾岸戦争」のまま中国語読みしていた例も確認されている[84]。文恵夫人を日本語読みで「フミエ」と呼ぶこともある。 なお、娘たちの学習は自由意志に委ねており、2人とも本格的な日本語教育を受けず英米に進学した[31]。 康定級フリゲートの購入や党の資金を使った投資プロジェクトからのキックバックなど、金銭をめぐる疑惑が少なからずあった[85]。自身の影響力を維持するため党内に金をばら撒いたり、選挙で優位に立つため暴力団を頼ったりした事もあったとされる[86]。これらの裏金は国外への工作にも使用され、国交維持を目的として南アフリカ共和国に巨額な資金提供が行われたほか、日本の橋本龍太郎、アメリカのカート・キャンベルやポール・ウォルフォウィッツなどがロビー活動の対象として挙げられている[85]。 2000年の総統選挙では、ともに改革に取り組み党内で辣腕を振るった宋楚瑜を排し、与し易い連戦の擁立に固執した。宋楚瑜は無所属で立候補して連戦と票を食い合い、民進党の陳水扁を利することとなった。結果政権交代となり、後に登輝自身も党主席辞任を余儀なくされた。その後の登輝は国民党批判を公然と行い、その変節ぶりと政治関与の継続は批判の的となった[50][87]。 皇民化教育を受け旧日本軍に従軍した経験、靖国神社を参拝するなど台湾人でありながらも日本人としてのアイデンティティを持った彼は同じ台湾の人間からも批判される。また本省人アイデンティティに傾倒し他のエスニックグループから反感を買った[87]。 台湾原住民タイヤル族の立法院議員である高金素梅は「帝国国民として生きた人はアイデンティティ、歴史、文化の深刻な矛盾を抱えている。死ぬまで気づかない人、それを誇りに思う人、植民地支配に向き合う人がいる。原住民は向き合い文化の復興をしているが李登輝は皇国史観のままである。韓国の大統領であった盧泰愚は朝鮮人軍人の名簿を探し彼らが軍国主義の礼賛に使用されている事を明らかにした。李登輝は日本保守の駒であり台湾にとっての悲劇だ。」と反軍国主義の立場で彼を批判した[88]。
人物像
文学・思想
言語
否定的な評価
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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