李登輝
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この民主化は「静かな革命(中国語版)」と呼ばれ[45]、李登輝は「民主先生(ミスター・デモクラシー)」とも呼ばれた[46]。李登輝は司馬遼太郎との対談で、「夜ろくろく寝ることができなかった。子孫をそういう目に二度と遭わせたくない」と述べており、台湾人を苦しめた法律、組織を次々と廃止、?介石の残党を巧みに追放し、野党の民進党を育て、民主化を進めた[47]

1994年3月31日に発生した千島湖事件について、「中国共産党の行為は土匪と同じだ。人民はこんな政府をもっと早く唾棄すべきだった」「(事件について穏便に言った方がよいという意見に対して)こんなときはガツンとやるに限るんだ。そうすると中国人はおとなしくなる。下手に出るとつけあがるよ。日本は中国に遠慮して、つけあがらせてばかりじゃないか」と述べており、土匪という激烈な言葉で中国を激しく批判したことから、台湾で波紋を呼び、中国からの武力攻撃を心配する声もあったが、その後、中国の李鵬首相が陳謝し、哀悼の言葉を述べている[47]

1994年7月、台湾省・台北市高雄市での首長選挙を決定し、同年12月に選挙が実施された。さらに登輝は総統直接選挙の実現に向けて行動した。しかし国民党が提出した総統選挙草案は、有権者が選出する代理人が総統を選出するというアメリカ方式の間接選挙を提案するものであった。それでも登輝はフランス方式の直接選挙を主張し、1994年7月に開催された国民大会において、第9期総統より直接選挙を実施することが賛成多数で決定された。同時に総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定めた。
第9期総統(1996年 - 2000年)ドイチェ・ヴェレの取材を受ける李登輝(1999年)

1996年初めての総統直接選挙が実施される。この選挙に際して中華人民共和国は台湾の独立を推進するものと反発し、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称される軍事演習を実施、ミサイル発射実験をおこなった。アメリカは2隻の航空母艦を台湾海峡に派遣して中国を牽制し、両岸の緊張度が一気に高まった(第三次台湾海峡危機)。北京政府の意図に反して、これらの圧力は却って台湾への国際的な同情と登輝への台湾国民の支持を誘う結果となり、登輝は54.0%の得票率で当選して台湾史上初の民選総統として第9期総統に就任した。「民主の大いなる門が、たった今、台湾・澎湖・金門・馬祖地区で開かれた」と声明を読み上げた後、「三民主義万歳、中華民国万歳、台湾人民万歳」と締めくくって大歓声を浴びた登輝は、政治家としての絶頂期を迎える[48][49]

総統に再任後は行政改革を進めた。1996年12月に「国家発展会議」(国是会議から改称)を開催したが、この会議の議論に基づいて1997年に憲法を改正し、台湾省を凍結(地方政府としての機能を停止)することが決定された。これによって台湾省政府は事実上廃止となった。

2000年の総統選挙では自身の後継者として副総統の連戦を推薦して選挙支援を行なうが、この選挙では国民党を離党した宋楚瑜が総統選に参加したことから、国民党票が分裂、最終的には民進党候補の陳水扁が当選し、第10期中華民国総統に就任した。これにより台湾に平和的な政権移譲を実現したが、野党に転落した国民党内部からは登輝の党首辞任を求める声が高まり、2000年3月に国民党主席職を辞任した[50]
外交・両岸関係

外交においては、蒋経国政権末期の路線を引き継ぐ形で、従来の「中華民国は中国全土を代表する政府」という建前から脱却し、「務實外交(中国語版)」と呼ばれる現実的な外交を展開。正式な国交がない諸国にも積極的に訪問した[49][51]

1989年にはシンガポールを訪問して蒋経国の盟友であったリー・クアンユー首相と会見するが、この際シンガポール側が李登輝を「中華民国総統」ではなく「台湾から来た総統」という呼称を用いたものの、登輝は「不満だがその呼称を受け入れる」と表明した[39][52]香港で行われた中台のオリンピック委員会トップによる協議で台湾のスポーツ団体の中国語名称を「中華台北」とすることで合意した。また、1990年にGATTには「中華民国」ではなく「台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域」の呼称で加盟し、北京で行われた1990年アジア競技大会1970年バンコク大会以来20年ぶりに参加し、両岸のスポーツ直接交流が始まった。1991年にはAPECにも「中華台北」の呼称で加盟している。

両岸問題では、1991年に「中国大陸と台湾は均しく中国であり、一つの中国の原則に基づいて敵対状態を解除して統一に向けて協力する」と定めた国家統一綱領を掲げ、密使を通じて大陸の曽慶紅らと接触して窓口機関の海峡交流基金会を設置してシンガポールで辜汪会談(中国語版)を実現させるなど当初は中台統一に積極的だった。1993年にはそれまで香港とマカオを介した間接貿易のみだった大陸への直接投資を解禁した[53]

しかし、動員戡乱時期を終結させて以来、北京政府は登輝のことを「隠れ台独派」とみなしており[49]、登輝自身も後述する二国論を「いつかは言わねばならないと機会をうかがっていた」と回想する[54]。リー・クアンユーとは蜜月関係にあったが、1994年9月にリーから「台湾は中国の一部で、何十年かかろうとも将来は統一に向かわねばならない」と水を向けられたのをきっかけに登輝が態度を硬化し、両者の交流は途絶えた[52]

1995年に登輝が訪米を実現して中華民国のプレゼンスを国際社会にアピールすると、北京政府は露骨な強硬姿勢をとるようになった[49][51]。1996年に総統に再選された後は登輝の武力行使放棄提案(李六条、李六点)を拒絶した大陸の江沢民政権の「文攻武嚇」(李登輝を批判し、武力を以て威嚇する路線[55])によって台湾海峡ミサイル危機が起き、登輝は「台湾独立」を意識した発言を強めていくことになる。1999年7月、ドイツの放送局ドイチェ・ヴェレのインタビュー中で両岸関係を「特殊な国と国の関係(中国語版)」と表現、二国論を展開した。この発言には、10月1日国慶節で「一国二制度」を前面に打ち出して台湾との統一交渉を開始しようとする北京政府を牽制する意図があった[54]。同年12月にも、アメリカの外交専門雑誌『フォーリン・アフェアーズ』の論文で「台湾は主権国家だ」と記述し、台湾独立を強く意識する主張を行った。

2013年5月、李登輝は台湾人のルーツをたどれば中国大陸からの移民が多いとしつつも、「私がはっきりさせておきたいのは、『台湾は中国の一部』とする中国の論法は成り立たないということだ。四百年の歴史のなかで、台湾は六つの異なる政府によって統治された。もし台湾が清国によって統治されていた時代があることを理由に『中国(中華人民共和国)の一部』とされるならば、かつて台湾を領有したオランダスペイン、日本にもそういう言い方が許されることになる。いかに中国の論法が暴論であるかがわかるだろう。もっといおう。たしかに台湾には中国からの移民者が多いが、アメリカ国民の多くも最初のころはイギリスから渡ってきた。しかし今日、『アメリカはイギリスの一部』などと言い出す人はいない。台湾と中国の関係もこれと同じである」と述べている[56]
経済

李登輝は12年間の総統時代に力を注いだのは、農業の発展で生まれた過剰資本と過剰労働力を使用して中小工業を育成するという「資源配分」であり、そのやり方は日本の発展が偉大な教師であり、日本と台湾が歩んできた経済発展の道は、外国資本と技術を当てにした「北京コンセンサス(英語版)」とも、規制緩和国有企業民営化財政支出の抑制を柱にした「ワシントン・コンセンサス」とも異なる方法であったと回顧している[57]
総統退任後中華民国総統の蔡英文と(2016年)晩年の李登輝(2017年)病院から総統府前を経由して火葬場に向かう車列。


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