この当時42歳で、留学生の間では最年長だった彼は、週末になると若い学生を自宅に招き、ステーキをふるまうことが多かった。そのため、当時のあだ名が「牛排李」(ビーフステーキの李)だったというエピソードがある。このころ彼の家に招待されていた者の中に、後に?経国暗殺未遂事件を起こす黄文雄・鄭自才がおり、このことが後述するタイへの出国不許可につながることになる[21][23]。 1969年6月、登輝は憲兵に連行されて警備総司令部の取調べを受ける。最初の取調べは17時間にも及びその後1週間拘束された。この経験から李登輝は台湾人を白色テロの恐怖から救うことを決心したと後年述べている。このとき、彼の経歴を洗いざらい調べた警官に「お前みたいな奴なんか?経国しか使わない」と罵られたという[24][25]。1970年、国際連合開発計画の招待によりタイ・バンコクで農業問題の講演を依頼されたが、同年4月に?介石の息子で当時行政院副院長の役職にあった?経国の暗殺未遂事件が発生し、犯人の黄文雄とアメリカ留学時代に交流があったため政府は「観察中」との理由で出国を認めなかった[26][27]。 この時期農復会の上司であった沈宗瀚
政界進出
行政院長に就任した?経国は本省人エリートの登用を積極的に行い、登輝は無任所大臣に当たる政務委員として入閣した。この時49歳であり、当時最年少での入閣であった。以降6年間、農業専門の行政院政務委員として活動した[26]。共同で収穫作業をする李登輝(1980年)
その後1978年、?経国により台北市長に任命される[29]。市長としては「台北芸術祭」に力を入れた。また、水不足問題の解決等に尽力し、台北の水瓶である翡翠ダムの建設を行った。さらに1981年には台湾省政府主席に任命される。省主席としては「八万農業大軍」を提唱し、農業の発展と稲作転作などの政策を推進した。この間の登輝は、派閥にも属さず権力闘争とも無縁で、蒋経国を始めとする上司や政府中枢の年配者の忠実な部下に徹した[29]。
1984年、?経国により副総統候補に指名され、第1回国民大会第7回会議で行われた選挙の結果、第7期中華民国副総統に就任した。?経国が登輝を副総統に抜擢したことについて登輝自身は「私は?経国の副総統であるが、彼が計画的に私を後継者として選んだのかどうかは、本当に知らない。しかし、私は結局彼の後を引き継いだのであり、これこそは歴史の偶然なのである。」と語っている[30]。1982年に長男の憲文を上咽頭癌により32歳の若さで喪う不孝に見舞われているが[注釈 3]、その子・坤儀も女児であり、李家を継ぐ男児がいなくなったことから、蒋経国の警戒を解き、側近中の側近といわれていながらも左遷された王昇らとの明暗を分けたともいわれる[29][32]。 1988年1月13日、?経国が死去[33]。?経国は臨終の間際に登輝を呼び出したが、秘書の取次ミスにより、臨終には立ち会えなかった[29]。任期中に総統が死去すると副総統が継承するとする中華民国憲法第49条の規定により、登輝が総統に就任する[34]。国民党主席代行に就任することに対しては?介石の妻・宋美齢が躊躇し主席代行選出の延期を要請したが、当時若手党員だった宋楚瑜が早期選出を促す発言をしたこともあり主席代行に就任する[35]。7月には第13回国民党全国代表大会で正式に党主席に就任した。 しかし登輝の政権基盤は確固としたものではなく、李煥・?柏村・兪国華
中華民国総統として総統に就任した李登輝(1988年)
継承第7期総統(1988年 - 1990年)
1989年には党秘書長(中国語版)の李煥と行政院長の兪国華を争わせて兪を追い落とし、その後釜に李煥を就任させた。この時、後任の秘書長に登輝の国民党主席就任を支持した宋楚瑜を据えた[36]。
第8期総統(1990年 - 1996年)
「万年国会」解消「1990年中華民国総統選挙」も参照
1990年5月に登輝の代理総統の任期が切れるため、総統選挙が行われることになった。
党の中央常務委により1月31日に登輝を党推薦の総統候補にすることが決定され、登輝が誰を副総統候補に指名するか注目されたが、登輝が2月に指名したのは、李煥などの実力者でなく総統府秘書長の李元簇だった[36][37]。
これに反発した党内元老らは党推薦候補を確定する臨時中央委員会全体会議で決定を覆すことを画策し、これに李煥・?柏村らも同調した。反李登輝派は、投票方式を当日に従来の「起立方式」から「無記名投票方式」へ変更したうえで造反した人物を特定されずに正副総統候補の選任案を否決しようとしたが、李登輝派がこの動きを察知してマスコミにリークして牽制、登輝は李元簇とともに党の推薦を受けることに成功した[36][37]。
その後も反李登輝派は、台北市長・台湾省主席で登輝の前任者でもあった本省人の林洋港(中国語版)を総裁候補に、蒋経国の義弟である蒋緯国を副総統候補に擁立し、国民大会で争う構えを見せた(このときの総裁選挙は、国民大会代表による間接選挙方式であった)。かつて登輝を支持した趙少康ら党内改革派も「李登輝独裁」を批判したが、政治改革を支持する世論に支えられた登輝は票を固め、党内元老の調停の結果、林洋港・蒋緯国いずれも不出馬を表明した[36][38]。
一連の「2月政争(中国語版)」を制した登輝は党内地位を確固たるものとし、3月21日の国民大会において信任投票により登輝と李元簇が総統・副総統にそれぞれ選出された[36][38]。
同時期、台湾では民主化運動が活発化しており、国民政府台湾移転後一度も改選されることのなかった民意代表機関である国民大会代表及び立法委員退職と全面改選を求める声が強まっていた。1989年に国民大会で、台湾への撤退前に大陸で選出されて以来居座り続ける[36]、「万年議員」の自主退職条例を可決させていたが、1990年3月16日、退職と引き換えに高額の退職金や年金を要求する国民大会の万年議員への反発から、「三月学運」が発生した。登輝は学生運動の代表者や民主進歩党(民進党)の黄信介主席らと会談し[39]、彼らが要求した国是会議(中国語版)の開催と憲法改正への努力を約束した。第8代総統に就任した当日の5月20日には、「早期に動員戡乱時期(中国語版)を終結させる」と言明し、1979年の美麗島事件で反乱罪に問われた民主活動家や弁護士など、政治犯への特赦や公民権回復を実施した[40][41]。