李登輝
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二・二八事件では登輝は台湾人および日本人としての経歴から、この事件で粛清の対象になる可能性が高かったため、知人の蔵に匿われた[15]。この頃の登輝については、複数の証言があるが、共産党員としての活動期間は概ね2年間とされる[16][17]。ただ、李登輝本人は、自身の著書「新・台湾の主張」の74ページ1?3行目で、「なお、台湾のいわゆる大陸よりのメディアである『中国時報』が、過去、李登輝が共産党に二回入党し、二回脱退したという虚報を流したことがある。共産党のような恐ろしい組織に入って無事に出てこられるはずがない。全くの事実無根である。」と述べ、共産党に所属したという見解を全面的に否定している。

このことに関して、共産党員になるには党組織による観察が一年以上必要なので、台湾に引き揚げてから二・二八事件が発生するまでに共産党員になるのは不可能だとする意見もあったが[18]2002年に行われたインタビューで、登輝自身がかつて共産主義者であったことを認めた。登輝は同インタビューの中で、「共産主義理論をよく理解しており、共産主義は失敗する運命にあることを知っているので、共産主義には長い間反対していた」と述べた。さらに自身の国民党への強い憎悪のために共産主義に傾倒したとも述べている[19]。また、当時毛沢東が唱えていた新民主主義を研究していた新民主同志會(中国語版)に所属して後にこの組織が共産党に引き継がれてから「離党」したので「入党」ではないと疑惑を否定した[20]

1948年農学士の称号を得る。1949年8月、台湾大学を卒業し、同大学農学部の助手として採用された。同年2月には、淡水の地主の娘であり、台北第二女子中学(日本統治時代は台北第三高女と称し現在は台北市立中山女子高級中学)の曽文恵(中国語版)と見合いにより結婚[21]。なお、1949年は国共内戦での中華民国軍の敗北が明らかとなり?介石政権台湾に逃れてきた時期にあたり、5月19日には戒厳令が台湾全域に施行され、登輝も9月に台湾省警備総司令部による検挙を受けた[21]
アメリカ留学時代

1950年に長男李憲文をもうけ、1952年に中美(米)基金奨学金を獲得しアメリカに留学、アイオワ州立大学で農業経済学を研究した。1953年修士学位を獲得して帰国、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学の講師として勤務することになった。

その後1957年に中国農業復興聯合委員会(農復会)に就職、研究職としての職歴を重ねた。同時に台湾大学助教授を兼任した。1961年キリスト教に入信する。家族写真(1964年)

1965年ロックフェラー財団及びコーネル大学の奨学金を得てコーネル大学に留学する。同大学では農業経済学を専攻する。1968年5月にPh.D.(農業経済学専攻)を取得。その博士論文 Intersectional Capital Flows in the Economic Development of Taiwan, 1895-1960 (1895年から1960年の台湾の経済発展におけるセクター間の資本の流れ)は全米農業経済学科賞を受賞し[22]1971年にコーネル大学出版社から出版されている。博士号を受けて1968年7月に台湾に帰国、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任した。

この当時42歳で、留学生の間では最年長だった彼は、週末になると若い学生を自宅に招き、ステーキをふるまうことが多かった。そのため、当時のあだ名が「牛排李」(ビーフステーキの李)だったというエピソードがある。このころ彼の家に招待されていた者の中に、後に?経国暗殺未遂事件を起こす黄文雄鄭自才がおり、このことが後述するタイへの出国不許可につながることになる[21][23]
政界進出

1969年6月、登輝は憲兵に連行されて警備総司令部の取調べを受ける。最初の取調べは17時間にも及びその後1週間拘束された。この経験から李登輝は台湾人を白色テロの恐怖から救うことを決心したと後年述べている。このとき、彼の経歴を洗いざらい調べた警官に「お前みたいな奴なんか?経国しか使わない」と罵られたという[24][25]1970年国際連合開発計画の招待によりタイ・バンコクで農業問題の講演を依頼されたが、同年4月に?介石の息子で当時行政院副院長の役職にあった?経国の暗殺未遂事件が発生し、犯人の黄文雄とアメリカ留学時代に交流があったため政府は「観察中」との理由で出国を認めなかった[26][27]

この時期農復会の上司であった沈宗瀚(中国語版)と徐慶鐘(中国語版)、または蒋経国側近の王昇(中国語版)・李煥(中国語版)の推挙により、1971年8月(または1970年)に専門家として?経国に農業問題に関する報告を行う機会を得て、その知遇を得ることになった[26]。そして?経国により国民党への入党を勧誘され、同年10月、経済学者王作栄の紹介により国民党に入党している[26][28]

行政院長に就任した?経国は本省人エリートの登用を積極的に行い、登輝は無任所大臣に当たる政務委員として入閣した。この時49歳であり、当時最年少での入閣であった。以降6年間、農業専門の行政院政務委員として活動した[26]共同で収穫作業をする李登輝(1980年)

その後1978年、?経国により台北市長に任命される[29]。市長としては「台北芸術祭」に力を入れた。また、水不足問題の解決等に尽力し、台北の水瓶である翡翠ダムの建設を行った。さらに1981年には台湾省政府主席に任命される。省主席としては「八万農業大軍」を提唱し、農業の発展と稲作転作などの政策を推進した。この間の登輝は、派閥にも属さず権力闘争とも無縁で、蒋経国を始めとする上司や政府中枢の年配者の忠実な部下に徹した[29]

1984年、?経国により副総統候補に指名され、第1回国民大会第7回会議で行われた選挙の結果、第7期中華民国副総統に就任した。?経国が登輝を副総統に抜擢したことについて登輝自身は「私は?経国の副総統であるが、彼が計画的に私を後継者として選んだのかどうかは、本当に知らない。しかし、私は結局彼の後を引き継いだのであり、これこそは歴史の偶然なのである。」と語っている[30]1982年に長男の憲文を上咽頭癌により32歳の若さで喪う不孝に見舞われているが[注釈 3]、その子・坤儀も女児であり、李家を継ぐ男児がいなくなったことから、蒋経国の警戒を解き、側近中の側近といわれていながらも左遷された王昇らとの明暗を分けたともいわれる[29][32]
中華民国総統として総統に就任した李登輝(1988年)
継承第7期総統(1988年 - 1990年)

1988年1月13日、?経国が死去[33]。?経国は臨終の間際に登輝を呼び出したが、秘書の取次ミスにより、臨終には立ち会えなかった[29]。任期中に総統が死去すると副総統が継承するとする中華民国憲法第49条の規定により、登輝が総統に就任する[34]。国民党主席代行に就任することに対しては?介石の妻・宋美齢が躊躇し主席代行選出の延期を要請したが、当時若手党員だった宋楚瑜が早期選出を促す発言をしたこともあり主席代行に就任する[35]7月には第13回国民党全国代表大会で正式に党主席に就任した。

しかし登輝の政権基盤は確固としたものではなく、李煥・?柏村・兪国華(中国語版)ら党内保守派がそれぞれ党・軍・政府(行政院)の実権を掌握していた。


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