李登輝
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1944年にほかの文科系学生と同じように学徒出陣により出征する[注釈 1]大阪師団徴兵検査第一乙種合格(特別甲種幹部候補生)で入隊し、台湾に一時帰って基礎訓練を終えた後日本に戻り[7]、その後千葉陸軍高射学校に見習士官として配属される[12]。その直後の1945年3月10日東京大空襲に遭遇。千葉の上空を通って東京方面に向かう米軍機に向けて高射砲を撃つ。爆撃で金属片が顔をかすめたが無事だった。大空襲の翌日である3月11日、爆撃で戦死した小隊長に代わって被災地で救援を指揮[12]。その後、終戦を名古屋で迎え、直後の昇進によりいわゆるポツダム少尉となる[7]。召集された際、日本人の上官から「お前どこへ行く? 何の兵になるか?」と聞かれ、迷わず「歩兵にしてください」と言い、加えて「二等兵にしてください」とまで要求したところ、その上官から「どうしてそんなきついところへ行きたいのか」[注釈 2]と笑われたという[13]
台湾大学時代曽文恵と結婚

1945年8月15日日本の敗戦とそれに伴う中華民国による台湾接収を受けて、中華民国籍となる。登輝は京大に復学して学業を継続するか悩んだ後、新生台湾建設に貢献すべく帰国を決意する[14]日本軍が台湾から撤退した後の1946年春に台湾へ帰り、同年夏に[14]台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。

呉克泰の証言では、登輝は、彼の要請を受けて、台湾に帰国後間もない1946年9月に中国共産党に入党。同年発生した米軍兵士による北京大学生強姦事件(沈崇事件(中国語版))に抗議する反米デモや翌1947年の国民党による二・二八事件に反発する暴動などに参加した。二・二八事件では登輝は台湾人および日本人としての経歴から、この事件で粛清の対象になる可能性が高かったため、知人の蔵に匿われた[15]。この頃の登輝については、複数の証言があるが、共産党員としての活動期間は概ね2年間とされる[16][17]。ただ、李登輝本人は、自身の著書「新・台湾の主張」の74ページ1?3行目で、「なお、台湾のいわゆる大陸よりのメディアである『中国時報』が、過去、李登輝が共産党に二回入党し、二回脱退したという虚報を流したことがある。共産党のような恐ろしい組織に入って無事に出てこられるはずがない。全くの事実無根である。」と述べ、共産党に所属したという見解を全面的に否定している。

このことに関して、共産党員になるには党組織による観察が一年以上必要なので、台湾に引き揚げてから二・二八事件が発生するまでに共産党員になるのは不可能だとする意見もあったが[18]2002年に行われたインタビューで、登輝自身がかつて共産主義者であったことを認めた。登輝は同インタビューの中で、「共産主義理論をよく理解しており、共産主義は失敗する運命にあることを知っているので、共産主義には長い間反対していた」と述べた。さらに自身の国民党への強い憎悪のために共産主義に傾倒したとも述べている[19]。また、当時毛沢東が唱えていた新民主主義を研究していた新民主同志會(中国語版)に所属して後にこの組織が共産党に引き継がれてから「離党」したので「入党」ではないと疑惑を否定した[20]

1948年農学士の称号を得る。1949年8月、台湾大学を卒業し、同大学農学部の助手として採用された。同年2月には、淡水の地主の娘であり、台北第二女子中学(日本統治時代は台北第三高女と称し現在は台北市立中山女子高級中学)の曽文恵(中国語版)と見合いにより結婚[21]。なお、1949年は国共内戦での中華民国軍の敗北が明らかとなり?介石政権台湾に逃れてきた時期にあたり、5月19日には戒厳令が台湾全域に施行され、登輝も9月に台湾省警備総司令部による検挙を受けた[21]
アメリカ留学時代

1950年に長男李憲文をもうけ、1952年に中美(米)基金奨学金を獲得しアメリカに留学、アイオワ州立大学で農業経済学を研究した。1953年修士学位を獲得して帰国、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学の講師として勤務することになった。

その後1957年に中国農業復興聯合委員会(農復会)に就職、研究職としての職歴を重ねた。同時に台湾大学助教授を兼任した。1961年キリスト教に入信する。家族写真(1964年)

1965年ロックフェラー財団及びコーネル大学の奨学金を得てコーネル大学に留学する。同大学では農業経済学を専攻する。1968年5月にPh.D.(農業経済学専攻)を取得。その博士論文 Intersectional Capital Flows in the Economic Development of Taiwan, 1895-1960 (1895年から1960年の台湾の経済発展におけるセクター間の資本の流れ)は全米農業経済学科賞を受賞し[22]1971年にコーネル大学出版社から出版されている。博士号を受けて1968年7月に台湾に帰国、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任した。

この当時42歳で、留学生の間では最年長だった彼は、週末になると若い学生を自宅に招き、ステーキをふるまうことが多かった。そのため、当時のあだ名が「牛排李」(ビーフステーキの李)だったというエピソードがある。このころ彼の家に招待されていた者の中に、後に?経国暗殺未遂事件を起こす黄文雄鄭自才がおり、このことが後述するタイへの出国不許可につながることになる[21][23]
政界進出

1969年6月、登輝は憲兵に連行されて警備総司令部の取調べを受ける。最初の取調べは17時間にも及びその後1週間拘束された。この経験から李登輝は台湾人を白色テロの恐怖から救うことを決心したと後年述べている。このとき、彼の経歴を洗いざらい調べた警官に「お前みたいな奴なんか?経国しか使わない」と罵られたという[24][25]1970年国際連合開発計画の招待によりタイ・バンコクで農業問題の講演を依頼されたが、同年4月に?介石の息子で当時行政院副院長の役職にあった?経国の暗殺未遂事件が発生し、犯人の黄文雄とアメリカ留学時代に交流があったため政府は「観察中」との理由で出国を認めなかった[26][27]

この時期農復会の上司であった沈宗瀚(中国語版)と徐慶鐘(中国語版)、または蒋経国側近の王昇(中国語版)・李煥(中国語版)の推挙により、1971年8月(または1970年)に専門家として?経国に農業問題に関する報告を行う機会を得て、その知遇を得ることになった[26]。そして?経国により国民党への入党を勧誘され、同年10月、経済学者王作栄の紹介により国民党に入党している[26][28]

行政院長に就任した?経国は本省人エリートの登用を積極的に行い、登輝は無任所大臣に当たる政務委員として入閣した。この時49歳であり、当時最年少での入閣であった。以降6年間、農業専門の行政院政務委員として活動した[26]共同で収穫作業をする李登輝(1980年)


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