李登輝
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「万年国会」解消「1990年中華民国総統選挙」も参照

1990年5月に登輝の代理総統の任期が切れるため、総統選挙が行われることになった。

党の中央常務委により1月31日に登輝を党推薦の総統候補にすることが決定され、登輝が誰を副総統候補に指名するか注目されたが、登輝が2月に指名したのは、李煥などの実力者でなく総統府秘書長の李元簇だった[36][37]

これに反発した党内元老らは党推薦候補を確定する臨時中央委員会全体会議で決定を覆すことを画策し、これに李煥・?柏村らも同調した。反李登輝派は、投票方式を当日に従来の「起立方式」から「無記名投票方式」へ変更したうえで造反した人物を特定されずに正副総統候補の選任案を否決しようとしたが、李登輝派がこの動きを察知してマスコミにリークして牽制、登輝は李元簇とともに党の推薦を受けることに成功した[36][37]

その後も反李登輝派は、台北市長・台湾省主席で登輝の前任者でもあった本省人の林洋港(中国語版)を総裁候補に、蒋経国の義弟である蒋緯国を副総統候補に擁立し、国民大会で争う構えを見せた(このときの総裁選挙は、国民大会代表による間接選挙方式であった)。かつて登輝を支持した趙少康ら党内改革派も「李登輝独裁」を批判したが、政治改革を支持する世論に支えられた登輝は票を固め、党内元老の調停の結果、林洋港・蒋緯国いずれも不出馬を表明した[36][38]

一連の「2月政争(中国語版)」を制した登輝は党内地位を確固たるものとし、3月21日の国民大会において信任投票により登輝と李元簇が総統・副総統にそれぞれ選出された[36][38]

同時期、台湾では民主化運動が活発化しており、国民政府台湾移転後一度も改選されることのなかった民意代表機関である国民大会代表及び立法委員退職と全面改選を求める声が強まっていた。1989年に国民大会で、台湾への撤退前に大陸で選出されて以来居座り続ける[36]、「万年議員」の自主退職条例を可決させていたが、1990年3月16日、退職と引き換えに高額の退職金や年金を要求する国民大会の万年議員への反発から、「三月学運」が発生した。登輝は学生運動の代表者や民主進歩党(民進党)の黄信介主席らと会談し[39]、彼らが要求した国是会議(中国語版)の開催と憲法改正への努力を約束した。第8代総統に就任した当日の5月20日には、「早期に動員戡乱時期(中国語版)を終結させる」と言明し、1979年美麗島事件で反乱罪に問われた民主活動家や弁護士など、政治犯への特赦や公民権回復を実施した[40][41]

6月に朝野の各党派の代表者を招き「国是会議」が開催され、各界の憲政改革に対する意見を求めた。

国是会議の議論に基づいて、1991年5月1日をもって動員戡乱時期臨時条款は廃止され(戒厳体制の完全解除)、中華民国憲法増修条文により初めて中華民国憲法を改正した。これにより国民大会と立法院の解散を決定し、この2つの民意代表機関の改選を実施することになった。これによって、「万年議員」は全員退職し、同年12月に国民大会、翌1992年12月に立法議員の全面改選が行われ「万年国会」問題は解決された[40][42][43]
総統直接民選家族写真(1992年撮影)二・二八事件紀念碑の落成式典で頭を垂れる李登輝(1995年)

1991年6月、登輝は対立が決定的になった李煥に代わって?柏村を行政院長に指名した。?も先の総統選挙では「李登輝おろし」に関わっており、台湾世論では驚きをもって受け止められ、民進党や改革派は三軍に絶大な影響力を持つ実力者の指名を「軍人の政治干渉」として反発した。当時登輝は治安回復などを?指名の理由としたが、真の狙いは「国民党の支配下にあった軍を国家のものにすること」にあった。実際、登輝はシビリアン・コントロール(文民統制)の原則に従って?を国軍から退役させたため、?の国軍に対する影響力が弱まり、国軍の主導権も登輝が握ることになる[36][44]。その後、登輝と事実上の共闘関係を結んでいた民進党が?を攻撃し、離間により李煥と連携できない?は守旧派をまとめられずに1993年に総辞職に追い込まれた。登輝は後任の行政院長に側近の連戦を据え、行政院の主導権も握った[36][44]

権力を掌握した登輝は、より一層の民主化を推進していくことになる。1992年には「陰謀犯」による内乱罪を規定していた刑法100条を立法院で修正させて、「台湾独立」などの主張を公にすることを可能にし、その後海外にいた独立活動家らも無罪にされた[25]

この民主化は「静かな革命(中国語版)」と呼ばれ[45]、李登輝は「民主先生(ミスター・デモクラシー)」とも呼ばれた[46]。李登輝は司馬遼太郎との対談で、「夜ろくろく寝ることができなかった。子孫をそういう目に二度と遭わせたくない」と述べており、台湾人を苦しめた法律、組織を次々と廃止、?介石の残党を巧みに追放し、野党の民進党を育て、民主化を進めた[47]

1994年3月31日に発生した千島湖事件について、「中国共産党の行為は土匪と同じだ。人民はこんな政府をもっと早く唾棄すべきだった」「(事件について穏便に言った方がよいという意見に対して)こんなときはガツンとやるに限るんだ。そうすると中国人はおとなしくなる。下手に出るとつけあがるよ。日本は中国に遠慮して、つけあがらせてばかりじゃないか」と述べており、土匪という激烈な言葉で中国を激しく批判したことから、台湾で波紋を呼び、中国からの武力攻撃を心配する声もあったが、その後、中国の李鵬首相が陳謝し、哀悼の言葉を述べている[47]

1994年7月、台湾省・台北市高雄市での首長選挙を決定し、同年12月に選挙が実施された。さらに登輝は総統直接選挙の実現に向けて行動した。しかし国民党が提出した総統選挙草案は、有権者が選出する代理人が総統を選出するというアメリカ方式の間接選挙を提案するものであった。それでも登輝はフランス方式の直接選挙を主張し、1994年7月に開催された国民大会において、第9期総統より直接選挙を実施することが賛成多数で決定された。同時に総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定めた。
第9期総統(1996年 - 2000年)ドイチェ・ヴェレの取材を受ける李登輝(1999年)

1996年初めての総統直接選挙が実施される。この選挙に際して中華人民共和国は台湾の独立を推進するものと反発し、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称される軍事演習を実施、ミサイル発射実験をおこなった。アメリカは2隻の航空母艦を台湾海峡に派遣して中国を牽制し、両岸の緊張度が一気に高まった(第三次台湾海峡危機)。北京政府の意図に反して、これらの圧力は却って台湾への国際的な同情と登輝への台湾国民の支持を誘う結果となり、登輝は54.0%の得票率で当選して台湾史上初の民選総統として第9期総統に就任した。「民主の大いなる門が、たった今、台湾・澎湖・金門・馬祖地区で開かれた」と声明を読み上げた後、「三民主義万歳、中華民国万歳、台湾人民万歳」と締めくくって大歓声を浴びた登輝は、政治家としての絶頂期を迎える[48][49]

総統に再任後は行政改革を進めた。1996年12月に「国家発展会議」(国是会議から改称)を開催したが、この会議の議論に基づいて1997年に憲法を改正し、台湾省を凍結(地方政府としての機能を停止)することが決定された。これによって台湾省政府は事実上廃止となった。

2000年の総統選挙では自身の後継者として副総統の連戦を推薦して選挙支援を行なうが、この選挙では国民党を離党した宋楚瑜が総統選に参加したことから、国民党票が分裂、最終的には民進党候補の陳水扁が当選し、第10期中華民国総統に就任した。これにより台湾に平和的な政権移譲を実現したが、野党に転落した国民党内部からは登輝の党首辞任を求める声が高まり、2000年3月に国民党主席職を辞任した[50]


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