李登輝
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台北州淡水郡三芝庄(現在の新北市三芝区)埔坪村の「源興居」で李金龍と江錦の次男として生まれる[6]

父・金龍は、警察補として植民地当局に出仕していた[6]。2歳年上の兄李登欽(中国語版)(日本名:岩里武則)は、第二次世界大戦で志願兵となるがフィリピンの前線で行方不明となり[7]大日本帝国海軍二等機関兵(戦死後、「上等機関兵」)として戦死通知されている。異母弟の李炳男は、貿易業に従事した。

父方の李一族は現在の福建省永定から台湾へ移住してきた客家の系譜で、祖父の代にはアヘンの販売権を有しており、経済的に安定した家庭環境によって幼少の頃から教育環境に恵まれていた。なお、母方は?南民系であるうえ、一族も移住後に現地コミュニティと融合していたことから、登輝自身に客家としてのアイデンティティはあまりなかった[6]

公学校に入学した登輝は、日本名「岩里政男」を通称として父から授けられた[6]。父の転勤に伴い6歳から12歳まで汐止公学校、南港公学校、三芝公学校、淡水公学校と4度の転校を繰り返した。淡水公学校卒業後は私立台北国民中学(現在の大同高級中学)に入学したが、1年後の1938年に淡江中学校へ転校。淡江中学校では学業に専念し首席で卒業。卒業後は台北高等学校に合格。

当時の「内台共学」教育により登輝は生涯流暢な日本語を話し、後年行われた司馬遼太郎との対談においては「22歳(1945年)までは日本人だった[8]」と語り[7]、「難しいことは日本語で考える」と公言していた[9]中華民国籍取得後も、訪日時には日本語を使用していた。
京都帝国大学時代

1942年9月、戦時の在学期間短縮措置により台北高等学校を卒業[6]。同年10月、現地の台北帝国大学には現地人に対する入学制限から進学することがかなわず(一説には旅順工業大学を受験したが合格しなかったとも[6])、本土の京都帝国大学農学部農業経済学科に進学した。農業経済学を選択した理由として、本人によれば幼少時に小作人が苦しんでいる不公平な社会を目の当たりにした事と、高校時代の歴史教師である塩見薫の影響によりマルクス主義唯物史観の影響を受けたこと、農業問題は台湾の将来と密接な関係があると思ったことを理由として挙げている[6][10]。大学時代は自ら「農業簿記」を学び、同時にマルクス河上肇などの社会主義関連の書籍に親しんでいた[11]。当時の登輝は、台湾よりも台湾人に門戸が開かれていた、満洲で卒業後に立身出世を目指すことを考えていた[6]
旧日本陸軍軍歴

1944年にほかの文科系学生と同じように学徒出陣により出征する[注釈 1]大阪師団徴兵検査第一乙種合格(特別甲種幹部候補生)で入隊し、台湾に一時帰って基礎訓練を終えた後日本に戻り[7]、その後千葉陸軍高射学校に見習士官として配属される[12]。その直後の1945年3月10日東京大空襲に遭遇。千葉の上空を通って東京方面に向かう米軍機に向けて高射砲を撃つ。爆撃で金属片が顔をかすめたが無事だった。大空襲の翌日である3月11日、爆撃で戦死した小隊長に代わって被災地で救援を指揮[12]。その後、終戦を名古屋で迎え、直後の昇進によりいわゆるポツダム少尉となる[7]。召集された際、日本人の上官から「お前どこへ行く? 何の兵になるか?」と聞かれ、迷わず「歩兵にしてください」と言い、加えて「二等兵にしてください」とまで要求したところ、その上官から「どうしてそんなきついところへ行きたいのか」[注釈 2]と笑われたという[13]
台湾大学時代曽文恵と結婚

1945年8月15日日本の敗戦とそれに伴う中華民国による台湾接収を受けて、中華民国籍となる。登輝は京大に復学して学業を継続するか悩んだ後、新生台湾建設に貢献すべく帰国を決意する[14]日本軍が台湾から撤退した後の1946年春に台湾へ帰り、同年夏に[14]台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。


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