李氏朝鮮
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小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している[25]。明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の?王、王昌を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の1393年2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したりしたことを快く思わず、李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。

明と朝鮮の関係は、宗主国と属国、君臣父子の関係であり、君臣父子の礼をもって宗主国の明に仕える関係に立って中国と事大外交を繰り広げた。李自成の乱で明が滅亡し、女真族によってが建国されると、明の文化の正当な後継者として「小中華」と称した。そこでは事大・属国とは征服・植民地とは異なり、道徳的・観念的なものであり汚らわしいものではないとする[23]。この関係を陸奥宗光は、朝鮮との折衝で、中国と朝鮮の宗属関係はなんとも複雑怪奇だ、と嘆いている[26]
仏教弾圧世宗(漢陽の石像)

朝鮮に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽への遷都を進めた。崇儒廃仏政策をとり、儒教の振興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。
王子同士の殺し合いと李成桂の隠居

李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男・李芳遠により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の李芳果に譲位した。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男・李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。
太宗即位と親明政策による「朝鮮王」冊封・対馬侵略

一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を執った。また、この時代は朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。

明に対しては徹底的な親明政策を執った。そのため、先代らは「権知朝鮮国事(朝鮮国王代理)」以上の地位が与えられなかったが、太宗は1403年には明の永楽帝から正式に「朝鮮王」の地位に冊封された。以後は第三代朝鮮王と名乗るようになる[4]

太宗は1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年応永の外寇と呼ばれる対馬への侵攻を指示した[27]
世宗即位と女真との戦争

次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで李芳遠が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に政治制度を切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻して制圧し、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。
世祖の中央集権

第6代の端宗(第5代文宗の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決裁する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、たびたび宮廷闘争などが発生する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君は巧みに勢力を拡大し、1455年に端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら国王となった(世祖)。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。軍政や官制の改造を行い、軍権を強めると共に職田法を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するが、世祖はこの反乱を鎮圧することで中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策を採り外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、自らに服従する功臣達を優遇し、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になる。また、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。1467年李施愛の乱では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君李浚世宗の四男臨瀛大君の次男)ら王族が台頭した。
勲旧派と士林派の対立と士禍

世祖の死後、睿宗が即位したが19歳で逝去。1469年に13歳の幼い王成宗が即位し、貞熹大妃垂簾聴政を行なったが国政は不安定になった。


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