李氏朝鮮
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北朝鮮では今日の朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)および古朝鮮と区別するために「朝鮮封建王朝」[16][17](??????[18])、「李朝朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」と呼び、王朝名称として「李王朝」(???)[19]あるいは「李朝」を用いる[20]。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。李鴻章編『通商章程成案彙編』(1886年)収録「大C國屬 高麗國旗」

当初より中国王朝の冊封国として建国された朝鮮だが、近代に入ると冊封体制からの離脱を指向する動きから大朝鮮国の国号も用いられた。また、李鴻章が編纂させた『通商章程成案彙編』には、古い太極旗が収録されているが、それには「大清国属高麗国旗」と書かれている[21][22]1897年、国号を大韓帝国(だいかんていこく)と改称し、国王号を皇帝号に改めた。
歴史
時代区分
国内政治における区分

朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、洪氏安東金氏閔氏などの外戚による勢道政治1804年 - 1910年)の区分に分けられる。
対外関係における区分

一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが朝貢国であった時代(1393年 - 1637年)と、丙子胡乱による敗北から下関条約による独立獲得までへ服属させられていた時代(1637年 - 1894年)、ロシア帝国の南下政策で日露が朝鮮半島に対する影響力をめぐって対立した末期(1894年 - 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。

第1の区分の末期には、日本の豊臣政権の侵攻による文禄・慶長の役と胡乱(後金(のちの清)による侵攻)という大きな戦争が朝鮮半島内で発生し、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する中華思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。その後は儒教内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。

19世紀末期になると、清以外にも欧米列強日本(大日本帝国)の介入が起こる。1894年の日清戦争で日本と清朝が戦って日本が勝ち、清朝との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下に置かれ、朝鮮は第3の区分に入った。しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥った。親日路線派は、親ロシア派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。日露戦争後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の李完用などは日本が大韓帝国を保護国化・併合する方針を採り、一進会は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の第二次日韓協約で日本は大韓帝国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。1910年に日本と大韓帝国は韓国併合ニ関スル条約を結び、大韓帝国は日本に併合された。李王家や貴族は李王家朝鮮貴族として華族制度に統合された。景福宮の玉座と日月五峰図
李成桂による建国「李成桂#朝鮮王朝建国までの道程」も参照

13世紀以来、の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。14世紀後半、中国遼東納哈出征討と元の干渉からの脱却、遼陽制圧、女真倭寇討伐などでの数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、李成桂1388年、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻して威化島回軍を起こし、高麗の首都開城を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時のに対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。

李成桂を支持した両班たちは、朱子学では中華を尊んで、夷狄を斥けるから、漢民族の明こそ正統な天子であり明に歯向かうことは天子の国を犯すことになると正当化した[23]


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