李氏朝鮮
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^ 1395年(太祖4年)6月6日に漢陽府から改称。
^人口

李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年8月から1897年10月[注釈 3]にかけて朝鮮半島に存在した高麗の次の王朝にあたり、朝鮮の歴史における最後の統一王朝である[1]
呼称

正式には朝鮮國[2]、または大朝鮮國[3]であり、現在の大韓民国では朝鮮王朝(: ????、: Joseon Dynasty)とも呼ばれ、近年の日本でも同様に呼ばれる場合がある。北朝鮮では朝鮮封建王朝(??????)と呼ばれる。(#国名を参照)

日本では李氏朝鮮と表記され、李家支配下の朝鮮の意味であり、過去に朝鮮という国号を使用した箕子朝鮮衛氏朝鮮などとの区別のため呼称される。王朝名としては李朝(りちょう)。
概説

1392年に高麗の武将李成桂太祖が高麗王・恭譲王を廃して、自ら権知高麗国事(高麗王代理、実質的な高麗王の意味)になり即位を自称したことで成立した。

前政権を否定するために、高麗の国教であった仏教を否定し、「崇儒排仏」で儒教が国教化された。

李成桂は翌1393年中国から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、朝鮮国知事代理の意味)に正式に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝洪武帝から下賜されたものであった。しかし、権知高麗国事から正式に明に「朝鮮国王」として冊封を受けたのは第三代明皇帝の永楽帝と第3代権知朝鮮国事太宗の治世の1403年であった[4]

中国の王朝がからに変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は1894年に日本が清国に勝利して下関条約で「李氏朝鮮は独立国」と認めさせるまで中国大陸の支配王朝(明・清)の冊封体制下にあった。

李氏朝鮮は成立から併合されるまで、政治的な派閥抗争が常に絶えなかった。李成桂に貢献したとされた勲旧派は、厳格に朱子学を重んじる士林派を4度大弾圧していたが、1567年の14代国王宣祖の即位とともに、逆に士林派が勲旧派を駆逐し、以降の朝鮮の官僚派閥は士林派で占められ、より理念的な朱子学こそ至高とされた。

ポストを独占した士林派は、1575年に東人派西人派に分裂し抗争、1591年に西人派が失脚すると東人派は西人派粛清の最中北人派南人派に分裂、1606年に北人派も大北人派と小北人派に分裂、大北人派も骨北、肉北、中北の3つの派閥に分かれ、党争は続いたが、1623年3月13日、綾陽君(仁祖)を擁護する西人派を中心とする宮廷クーデターが起き(仁祖反正)、光海君が廃位・追放されると、西人が政権を握り、大北派は粛清されて、政治の舞台からほぼ姿を消した。これ以後はまた南人派と西人派の間で政争が行われることになる。

西人派も1680年に老論派少論派に分裂するなど李氏朝鮮は党派対立が常に激しく、妥協がないために政権交代は対立する派閥に関する虚偽の謀反誣告を受けた王による粛清か権力を握った派閥による粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。このように、反対派の芽ごと摘んでしまう士禍を繰り返した朝鮮王朝の政治を「朋党政治」という。近代化に必要な実学派は常に弾圧され台頭出来ずに政権を握った理念的な朋党が歴史書の修正を書き、反対派の記録を自分たちに有利なように書き直される非生産的な歴史が繰り返され、経済・技術・軍事が停滞していた[5][6][7]

1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約によって李氏朝鮮は清王朝を中心とした冊封体制から離脱し、形式的な独立や独立国家の実質的な地位を得た。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後中国大陸の影響下から離れたが、李氏朝鮮は露館播遷などロシア帝国の影響下に入ることを選んだため、南下政策を危惧してロシアと対立していた英米の日本支持が強まる結果をもたらした[8]

日露戦争が始まった1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年の日露戦争終結後の第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合された。
国名「朝鮮」も参照

高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は即位するとすぐにに使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった[9]。「和寧」は李成桂の出身地の名[注釈 4]であったが[9]北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は、むかし前漢武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、「朝鮮」は正式な国号となった。「和寧」が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮檀君朝鮮の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた[10]。国号が朝鮮という二文字なのは、中国の冊封体制に、新王朝の君主が外臣として参加して、一文字の

李氏朝鮮
各種表記
ハングル:?? ??
漢字:朝?李朝
日本語読み:りしちょうせん
ローマ字:Risityousenn
英語表記:Yi Dynasty Korea
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国号を持つ内臣より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する[11]

国号を洪武帝に選んでもらったことは、事大主義を象徴していると揶揄されるが[9]、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり[12]、首都が漢陽に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君と箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、殷の賢人箕子が、武王によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため[13]、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいと祈念した[10]。周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する「朝鮮」の国号を奏請したことが背景にあった。



朝鮮の歴史
考古学朝鮮の旧石器時代(朝鮮語版)
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説檀君朝鮮
古朝鮮箕子朝鮮

辰国衛氏朝鮮
原三国辰韓弁韓漢四郡
馬韓帯方郡楽浪郡?


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