李氏朝鮮
各種表記
ハングル:?? ??
漢字:朝?李朝
日本語読み:りしちょうせん
ローマ字:Risityousenn
英語表記:Yi Dynasty Korea
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国号を持つ内臣より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する[11]。
国号を洪武帝に選んでもらったことは、事大主義を象徴していると揶揄されるが[9]、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり[12]、首都が漢陽に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君と箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、殷の賢人箕子が、周の武王によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため[13]、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいと祈念した[10]。周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する「朝鮮」の国号を奏請したことが背景にあった。
朝鮮の歴史
考古学朝鮮の旧石器時代(朝鮮語版)
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説檀君朝鮮
古朝鮮箕子朝鮮
燕
辰国衛氏朝鮮
原三国辰韓弁韓漢四郡
馬韓帯方郡楽浪郡?
貊沃
沮
三国伽耶
42-
562百済
高句麗
新羅
南北国唐熊津都督府・安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892安東都護府
668-756渤海
698-926
後三国新羅
-935後
百済
892
-936後高句麗
901-918遼女真
統一
王朝高麗 918-金
元遼陽行省
(東寧・双城・耽羅)
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-朝鮮民主主義
人民共和国
1948-
朝鮮の君主一覧
大韓民国指定国宝
中国朝鮮関係史
Portal:朝鮮
日本や中国では朝鮮半島にかつて存在した朝鮮を国号に持つ王朝と区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年は大韓民国の意(後述)を汲んだ歴史学者を中心に「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつある[注釈 5]が、この呼び名は広義には「朝鮮半島」の「王朝」という意味にも理解されるため李氏朝鮮だけを特定して指すには不適切だとする意見もある。
大韓民国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は植民地史観に基づくものとされることと「朝鮮」「朝鮮人」と呼ばれることに差別的意味合いを感じること[15] 、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と国家の正統性を争っているなど、複数の理由により「朝鮮」という呼称をこの時代に限定したいという意図から国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた国は「朝鮮」、李氏朝鮮の王室は「朝鮮王朝」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は古朝鮮と呼び区別し、他国、特に日本に対してもそのように呼ぶように求めている。また現在「朝鮮」という国号を使用している北朝鮮には「韓半島(朝鮮半島)の唯一合法的な政府」と主張する立場から北朝鮮を承認していないため「北韓」という呼称を使用している。北朝鮮では今日の朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)および古朝鮮と区別するために「朝鮮封建王朝」[16][17](??????[18])、「李朝朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」と呼び、王朝名称として「李王朝」(???)[19]あるいは「李朝」を用いる[20]。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。李鴻章編『通商章程成案彙編』(1886年)収録「大C國屬 高麗國旗」
当初より中国王朝の冊封国として建国された朝鮮だが、近代に入ると冊封体制からの離脱を指向する動きから大朝鮮国の国号も用いられた。また、李鴻章が編纂させた『通商章程成案彙編』には、古い太極旗が収録されているが、それには「大清国属高麗国旗」と書かれている[21][22]。1897年、国号を大韓帝国(だいかんていこく)と改称し、国王号を皇帝号に改めた。 朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖の王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、洪氏・安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 - 1910年)の区分に分けられる。 一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが明の朝貢国であった時代(1393年 - 1637年)と、丙子胡乱による敗北から下関条約による独立獲得まで清へ服属させられていた時代(1637年 - 1894年)、ロシア帝国の南下政策で日露が朝鮮半島に対する影響力をめぐって対立した末期(1894年 - 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。 第1の区分の末期には、日本の豊臣政権の侵攻による文禄・慶長の役と胡乱(後金(のちの清)による侵攻)という大きな戦争が朝鮮半島内で発生し、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する中華思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。
歴史
時代区分
国内政治における区分
対外関係における区分