李承晩
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1952年5月26日 - 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(釜山政治波動)。

1953年7月27日 - 朝鮮戦争休戦。

1956年5月15日 - 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。

1958年 - 進歩党党首の゙奉岩をスパイ容疑で逮捕し、1959年7月に処刑。

1959年 - 新潟日赤センター暗殺・爆破テロ未遂事件

1960年 - 3月15日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。

1960年4月19日 - 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。4月26日に下野を表明し、5月29日ハワイへ亡命(四月革命)。

1965年7月19日 - 亡命先のハワイにて90歳で客死。

生涯
出自から独立運動

李承晩は黄海道平山郡馬山面大経里陵内洞の全州李氏の没落両班の家に生まれた[1]。父・李敬善(1839年?1912年)、母(金海金氏、1833年?1896年)の3男2女の末っ子(ただし、兄二人は天然痘で夭逝)である。族譜では太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の16代末裔である[注釈 1]。譲寧大君の長男富林令李順の子孫にあたる。王族としては、13代前の樹州正李允仁、その孫で丙子の役の時に武功を立てて全豊君を追贈された李元約などがいる。その後、数人の子孫が官職に就くも、6代前の李徴夏が陰職県令となったのを最後に、没落した。承晩自身は李氏朝鮮の王族の分家出身であることを誇りにしていた[2]

父・敬善は、財産を放蕩で使い果たし、2番目の息子が死ぬと、地神を棒で叩き壊し、大刀を振り回し、その後、3ヶ月の間寝込んだ[3]投獄中の李承晩(1899年、前列左端)。

少年時代の李は科挙合格を目指していたが、1894年朝鮮に於ける科挙制度が廃止されたため、アメリカ人宣教師によるミッション・スクール培材学堂に入学した[4]培材学堂の第一期学生となり[5]1896年に設立された独立協会にも参加したが、時の親露派政権が高宗皇帝に讒言したため、1898年11月には独立協会の解散、指導者の逮捕が命じられ、独立協会は同年12月、強制的に解散させられた。李承晩も1899年に逮捕され[5]拷問を受けながら1904年まで獄中にいた。

同1904年の日露戦争の勃発後に日本が軍事的・外交的・経済的に大韓帝国に浸透するのに危機感をいだいた高宗らは、1882年朝米修好通商条約の第1条の「周旋条項」に基づいて、アメリカ合衆国に朝鮮の独立維持のための援助を求めることを構想した。そこで英語が話せた李を釈放し、アメリカに派遣した[5]ハワイを経由して、アメリカに渡った李は1905年8月、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、「我々は皇帝の代表者ではなく、一進会という団体の代表者である」とし、「皇帝は朝鮮人の利益を代弁する事ができない」と、大韓帝国と高宗を積極的に否定した[6]

その後李はアメリカに残り、ジョージ・ワシントン大学ハーバード大学を経てプリンストン大学博士号を取得した[5]。このプリンストン大学による哲学博士号授与により、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}李は アジア人初の博士号取得者となった[要出典] [7][出典無効]。この時期にプリンストン大学の総長であったのが、後に大統領となるウッドロウ・ウィルソンである。ウィルソンは李を気に入り、彼が自宅で開く懇親会に常連客として迎え入れ、折りをにふれて「将来の朝鮮独立の救世主」として紹介した[8]。ジョージ・ワシントン大学における成績は、平均「C」と低い成績だった[要出典](Cの下はFで落第)が、上記のように修士課程を修了し博士号を取得した。なおアメリカ留学中の1910年に日本と大韓帝国の間で締結された日韓併合条約により、大韓帝国は大日本帝国に併合されることとなる。

大学院卒業後の1911年(明治44年)に日本領となった朝鮮半島へ戻り、ソウルのキリスト教青年会で宣教活動についた[5]。しかし1年半の後、当時の寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件(朝鮮では「105人事件」と呼ばれている)の関与を疑われ、再び渡米した[9]。アメリカに渡る途中に日本本土へ立ち寄り、下関京都東京に観光のため滞在し、鎌倉市で開催された朝鮮人学生大会にも参加した。渡米後の1913年(大正2年)に、ハワイの日本人として[6]ホノルルに居を構え、学校職員として勤務する傍ら、朝鮮独立運動に携わった。

1918年、李と親交があったウィルソン大統領によって、「民族自決」などを掲げた平和原則が議会において発表された。同年12月にはパリ講和会議においても「民族自決」を含む条約が提起されるにおよび、ロビー活動を行うため李もパリ行きを希望する。しかし国務省は、李の旅券を発行しないよう指示されていた[10]
臨時政府と再度の渡米金奎植(右)と共に。

1919年4月10日上海で結成された「大韓民国臨時政府」(略称:臨政)の初代大総理に就任し、9月11日からは臨時政府大統領となった。上海臨時政府は、短期的にではあれ、朝鮮独立のための統一戦線として左右両翼を糾合できたという点で独立運動における画期的な存在であった。これまで独立運動に於いてそれまでほぼ無名であった李が大統領に選ばれたのは、第一次世界大戦終結に際して民族自決をはじめとした「十四か条の平和原則」を唱えたアメリカ合衆国のウィルソン大統領と人脈があると考えられ、さらにかつての大韓帝国皇帝高宗とも繋がりがあるという事が指摘されている[9]。実際、同時期に成立していた各種の朝鮮独立運動の「臨時政府」において、李はリストのナンバー1か2に必ず名を連ねている[9]

一方で李は、国際連盟による朝鮮の委任統治を提案していた[11]。これは独立達成のためには委任統治というステップを踏むことが必要であるという考えであったが、これは左派の李東輝らの強い反発を受け、「第二の李完用」であると非難された[11]


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