李従茂
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貞盛は暴風雨の到来を告げて停戦を薦め[1]、従茂も名分が立ったとして講和を結んで7月3日に還った。しかし黄海道に倭寇がまた出現したため再び李従茂を総大将とし、対馬侵攻が検討されるが沙汰やみになる。恩賞に馬一頭と衣一包を賜り、議政府賛成になる。
1420年、長川府院君に封ぜられる。
1423年-1424年、明への謝恩使として中国に赴く。
1424年3月、罪を受け珍島に流刑になるも、病のため果川に留まる。
1425年、1月罪を許され長川府院君に復位する。 6月9日没(享年66)。
名を付けられた艦船
張保皐級潜水艦の5番艦「李従茂」がある。
脚注[脚注の使い方]^ 老松堂のみた日本 - 専修大学 58ページ ⇒[1]
外部リンク
⇒日本の教科書検定…日韓の対立、激化の一途
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