李?
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一方で私生活の乱行も収まらず、1925年頃には7名の妾のために毎年9200円の支出を行い、1927年には李王家から8万円の経費を支出してもらうことでようやく家政を維持する有様であった[11]。恩賜公債も債務整理のために全て売却されている[11]

王公家軌範制定後の1930年6月12日に隠居し、公位は長男の李鍵が継承した。隠居しても公族の身分はそのままであり、殿下の敬称で呼ばれた。また、李王家から年間12万円の生活費が支給されている[11]
栄典

1906年4月9日光武10年) - 大勲位金尺大綬章[12]

1924年(大正13年)1月8日 - 大勲位菊花大綬章[13]

1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[14]

1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[15]

李?妃金氏


1924年(大正13年)1月8日 - 勲二等宝冠章[16]

1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[15]

家族

父は高宗。異母兄に純宗、異母弟に李垠(妻は梨本宮家方子女王)、異母妹に徳恵翁主(夫は宗武志)。

妃は金修コ(金思濬長女、1880年1月21日 - 1964年1月14日)である。1893年12月6日に結婚した。この他に数多くの側室[17](鄭氏、金興仁、鄭雲石、゙秉淑、李喜春、金貞完、朴英喜、宋氏、金昌煕、金今コ、咸開鳳、金屐ェ、洪貞順など)がいる。1958年に行われた調査では、夫人が18名、子女は28人いたというが、子供のうち、公族として認知されたのは李鍵と李?の2名のみであった[5]




長男 李鍵(り けん、1909年 - 1990年)母は侍女の鄭氏。1930年の李?隠居に伴い公位を継承、1947年5月3日の日本国憲法施行前後で公族の身分を喪失。日本に帰化し、桃山虔一を名乗る。虔一の回想によれば、母とは会ったことがなく、幼少期には李?に「早く日本に行ってしまえ」「朝鮮に永くいるな」と暴言を吐かれていたという[18]

鍵公妃 誠子(よしこ、1911年 - 2006年)伯爵廣橋眞光の養妹。高松松平家分家の松平胖長女。1931年結婚、1951年離婚。2男1女のうち1男1女は母親が引き取る。


次男 李?(り ぐう、1912年 - 1945年)母は側室金興仁。興宣大院君(高宗の父)の嫡孫・李剏の公位を継承する。広島原爆により死亡。

?公妃 朴賛珠(1914年 - 1995年)朝鮮貴族の侯爵朴泳孝の孫娘。1935年結婚。終戦時、次男とともに京城府ソウル)にいたため、在日朝鮮人とはならず、韓国籍に移行。




三男 ?(パン、1914年 - 1951年)

四男 鎗(チャン、1915年 - )

五男 鑄(チュ、1918年 - 1982年)

六男 ?(コン、1920年 - )

七男 鑛(クァン、1921年 - 1952年)

八男 鉉(ヒョン、1922年 - 1998年)

九男 (カプ、1938年 - 2014年) 李源の父。

十男 (ソク、1941年 - )全州李氏宗親会会長

十一男 ゚(ファン、1944年 - )

十二男 錠(チョン、1947年 - )


長女 海?(ヘワン、1915年 - 1981年)

次女 海?(ヘウォン、1919年 - 2020年)

三女 海?(ヘチュン、1920年 - 2009年) 夫:朴賛汎(離縁)

四女 海?(ヘソク、1920年 - )

五女 海瓊(ヘギョン、1930年 - )

六女 恵子(ヒジャ、1940年 - )

七女 海?(ヘラン、1944年 - )

八女 海k(ヘリョン、1950年 - )

九女 昌恵(チャンヒ、1951年 - )

系図

李?の親類・近親・祖先の詳細?源系譜紀略(荘祖懿皇帝子孫)

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