李卓吾
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李卓吾
李贄(李卓吾)の肖像画
プロフィール
出生:嘉靖6年10月26日
死去:万暦30年3月16日
出身地:泉州府晋江県
職業:陽明学者
出生地:泉州府晋江県
各種表記
繁体字:李卓吾
簡体字:李卓吾
?音:l? zhuowu
和名表記:り たくご
各種表記(本名)
繁体字:李贄,林載贄
簡体字:李?,林??
?音:l? zhi,lin z?izhi
和名表記:り し,りん さいし
英語名:Li Zhi
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李 卓吾(り たくご、嘉靖6年10月26日1527年11月19日) - 万暦30年3月16日1602年5月7日))は、中国代の思想家・評論家。陽明学左派(泰州学派)に属する。泉州府晋江県の出身。

もとの名は林載贄(りん さいし)。のちに姓を李と改める。1566年に即位した隆慶帝朱載?の諱を避けて「載」字を除き、李贄(り し)と名乗った。号は卓吾(一説に字とも言われる)・宏甫・篤吾・龍湖叟。別号は温陵居士。

また母を早くに亡くし、父の影響を大きく受けたと言われる李卓吾は、父(白斎公)を偲ぶと言う意味で、晩年「思斎」と号した[1]
生涯

嘉靖6年(1527年)、泉州府晋江県に生まれた。当時、明世宗嘉靖帝の治世は「北虜南倭」に悩まされる時代であった。若年を泉州で過ごした卓吾は母を早くに亡くし、父に読書詩文を教わった。26歳の時に郷試に合格したが進士とはならず地方官を歴任した。40代は北京・南京で官界生活を送り、54歳で官を退いた。その後麻城県龍湖にある芝仏院に落ち着き、そこで読書と著述に励んだ。官職から退いた後は、友人の経済的な援助を支えに生活していたという[2]。李卓吾の代表作のほとんどはこの芝仏院時期のものであり、本人の著作や同時代の友人などの記述など多くの記録が残されているが、その中でも50歳以前の卓吾の状況を伝える文は極端に少ない[3]

その思想は陽明学左派(泰州学派)に属するが、それは官僚として各地に赴任した折、耿定向・耿定理兄弟と親交を結び陽明学へと傾倒していったためである。その後王畿羅汝芳といった王陽明の弟子に出会うことで、さらに李卓吾は思索を深めていった。現在の中国の歴史学者の研究では、ムスリムではないかと言われている。

なお万暦27年(1599年)、南京に赴任していた折りにイエズス会マテオ・リッチと邂逅している。以後何度か会い、相互理解を深めたようである。李卓吾はリッチの人柄や能力、その著作『交友論』に高い評価を下している。またリッチの方でも李卓吾がキリスト教に一定の理解を示したことや文学にも科学にも精通していると書き残している。

李卓吾は儒教・仏教・道教三教の融合を唱えていたため、外国思想であるキリスト教に理解を示したのは当然とも言えるが、相対主義者でもあった卓吾は、絶対権威の一神教であるキリスト教を完全に認めたわけではない、他考えられている[4]

官職引退後に刊行した詩文集『焚書(ふんしょ)』(1589年)には耿定向との往復書簡が納められ朱子学及びそれを信奉する道学者への厳しい批判が込められていた。そのため、周囲から危険思想と断定され、様々な圧力をかけられた。『焚書』を公刊した後からは、地方の郷紳や学者から迫害を受け、龍湖に住んでいた70歳の年(1596年)には巡道(地方の司法長官)史氏が「李卓吾はまだいるのか、この人物は大いに空気を汚している。もし立ち退かないなら法に照して処置しよう」(『続焚書』巻一、答来書)と郷紳たちに言ったという[5]

李卓吾への批判はその思想だけでなく生活習慣(僧形となったこと、剃髪、極度の潔癖症であったこと、女性にも学問を講義したこと)にまで及び、彼を悩ますことになる。62歳の時に落髪出家(剃髪)を行ったとされる。李卓吾自身は、儒書をまとめた『初潭集』を編集するなど儒者の精神を捨てたわけではなかったが、世間で剃髪は”世俗との訣別、儒者の放棄”と受け取られる行為[6]として、役人などからも大きく批判され、迫害や逮捕につながるものとなった。また李卓吾への批判はその思想の特異性のみならず、彼の性格に拠るところも大きい。自ら狷介・偏狭と述べ憚らず、世と相容れないこと甚だしかった。

また73歳で南京で出版した歴史人物評論集『蔵書』も逮捕投獄の原因の一つともなった。結局、迫害を逃れたさきの北京近郊で逮捕された。そして獄中で自殺。享年76。


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