李克強
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同月21日、李は北京中南海で開催された改革開放に関する座談会を主宰し、「人民がさらに良い生活を送れるようにするためには、改革開放が必要だ」と述べ、多くの改革を進めれば既得権益層の打破などにつながると主張して、習李体制の10年間で改革を進める姿勢を示した[15]
国務院総理詳細は「李克強内閣」を参照習近平と李克強(2013)李克強(2015)

2013年3月15日に李克強は第12期全人代第1回会議において第7代国務院総理に選出された[16]。翌日には閣僚の任命が行われて、正式に李克強内閣が発足した[17]。当初は経済政策として改革開放の推進を掲げ、「リコノミクス」と呼ばれるなど注目されたが、結局は改革に否定的な姿勢の習近平が権力集中を強める中で経済政策の決定権をも握ることとなり、その存在感は低下していった[18][19][20][4]安倍晋三と李克強(2018)ロドリゴ・ドゥテルテ夫妻と、李克強夫妻(2019)

2018年5月8日に日中韓首脳会談への出席のために総理就任後初めて訪日し、9日に東京迎賓館での安倍晋三首相との会談で日中防衛当局間のホットラインである海空連絡メカニズムの運用開始、一帯一路に基づく第三国での共同インフラ整備を具体化させる官民協議体の設置、通貨スワップ協定再開や共同映画製作協定と社会保障協定の締結などで合意し[21][22]天皇とも懇談した[23]。また、北海道への視察には安倍首相も同行し、日中知事省長フォーラムに出席した他[24]、牧場のえこりん村で昼食をともにし、トヨタ自動車の工場も訪れて豊田章男社長に出迎えられた[25]

2022年3月11日、李克強は記者会見の中で自らの出処に触れ、翌2023年の任期末をもって総理職を退任すると明言。中華人民共和国憲法の第87条で国務院総理は2期を超えて連続で務めることはできないと定められており、李克強のこの発言は当たり前の内容と言えるが、慣例である定年の68歳に達していないほか、当時は習近平が慣例を破って3期目を目指していると目されている時期であった[26][27]。2022年10月に開催された中国共産党第二十回全国代表大会で中央政治局委員から外れ引退が確定した[28]。2023年3月11日の第14期全人代の全体会議で後継の国務総理が選出されたことで退任したが、習近平との溝は最後まで埋まらなかった[29][30]。国務院総理時代は習近平の影に隠れる形となったが、改革開放の価値観を擁護し継続させたことを評価する声もある[19]
死去

最後に公に姿を見せたのは2023年8月31日に甘粛省敦煌市莫高窟を訪問した際のことで、市民や観光客に対して笑顔で手を振って応対したが[4]、現場にいた国営メディアが訪問を報じることはなかった[31][32]。同年10月下旬頃より上海で療養し[33]、10月27日0時10分(日本時間1時10分)に心臓発作のため搬送先の上海にある上海中医薬大学附属「曙光医院」[34]で死去した。68歳没[35][36]。香港のメディアは宿泊していた上海の高級ホテル・上海東郊賓館(中国語版)で水泳をしていた際に心臓発作を起こしたと報じ[37]、この情報は中国国内で新浪微博を通じて拡散されホテルは宿泊予約サイト上で11月上旬まで営業を停止すると発表するなど対応に追われた[38]。唐突な訃報は中国国外でも速報で伝えられたが[39][4]、中国国内では李克強死去を報じるNHK海外放送のニュース映像が一部遮断された[40]。遺体は11月2日に八宝山革命公墓にて火葬され、葬儀場には習近平を含む党最高指導部7人全員が訪れ弔意を示したが、胡錦濤元総書記は花輪を贈るにとどめ出席はしなかった[41]
人物

部下を決して怒鳴りつけることはせず、公私で他人の悪口を言わず、周囲に常に笑顔を見せているという。共産主義青年団にいた頃は胡錦濤と行動を共にすることが多く、胡錦濤は李克強の人柄を見込んで青年団書記候補に抜擢した。青年団時代の幹部によると「李克強は敵を作らない」という。学校部長であった頃にある部長との意見の相違で対立したことがあり、李克強が中央第一書記になると、その部長は報復を恐れていたが、ある日、李克強は彼を呼び寄せ、人事異動の際に彼の昇格を伝え、新しい官舎の鍵を渡したという
[42]

元来あまり身体が丈夫でなく、腎臓肝臓疾患糖尿病を患っていると報じられたことがある[43][44][45]。2023年10月27日に急死した際には死因は心臓発作と発表され、心臓に関する持病があったかどうかは不明だが、過去に冠動脈バイパス手術を受けた経歴があったと消息筋は伝えている[32][46]

2022年に李克強よりも高位の役職にあった江沢民元国家主席が死去した際には、北京の在中国日本大使館は半旗を掲揚しなかったが、対外関係を重視した李克強は日本との関係も深く、「日中関係発展のために長きにわたり重要な役割を果たした」との評価があり、垂秀夫中国大使による「前例にとらわれるな」という考えのもと北京では日本大使館だけが最大限の追悼を示す半旗を掲げ、急死した李に哀悼の意を示した[47][48]

家庭

程虹夫人は首都経済貿易大学の英文科教授。2014年5月に外交デビューを果たした[49]。二人の間に一女がいる。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 中国共産党の公式発表では、胡錦濤の戸籍地は安徽省績渓県であるが。しかし、実は江蘇省泰州市出身[6]

出典^李克?同志生平 ? 新華通信社
^ 日本大百科全書(ニッポニカ)
^ 中国の李克強前首相が死去、68歳 現地報道「上海で休養中に急変」.朝日新聞社
^ a b c d e f “中国・李克強前首相の突然の訃報に国内衝撃 8月には観光客に笑顔も”. 毎日新聞デジタル. (2023年10月27日). https://mainichi.jp/articles/20231027/k00/00m/030/097000c 2023年10月28日閲覧。 
^ 張丹紅 (2007年10月22日). “十七大閉幕:陳規俗矩下的依稀曙光(中国語)” (中国語). コ国之声. ⇒オリジナルの2011年2月3日時点におけるアーカイブ。


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