李光耀
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シンガポール航空DBS銀行のような政府関連企業の持株会社であるテマセク・ホールディングスが、現在シングテルの株の56%を保有しており、そのテマセク・ホールディングスは、長男シェンロンの妻であるホー・チンが社長を務めていた。国立脳神経科学院を運営している長女ウェイリンは、独身を貫いている。妻のクワ・ゲオ・チューは、以前Lee & Lee法律事務所を夫と共同運営しており、クアンユーの弟であるデニス、フレディ、スアンユーの3人は、同事務所のパートナーだった。他にもモニカという妹がいる。

このような同族支配体制ともとれる現状に、クアンユー自身は縁戚者に対する持続的な特恵は存在せず、おのおのの能力に見合った地位に置いているのだと述べている。
青年時代

テロク・クラウ小学校、ラッフルズ学院を経て、ラッフルズ大学で学んでいたが、太平洋戦争中の1942年日本軍によるシンガポール占領とイギリス植民地政府の崩壊に伴い大学が閉鎖され、学業を中断せざるを得なくなった。その間はタピオカを利用して作った“スティックファス”という接着剤闇市で売って生計を立てていた。

また、リーによれば、シンガポール華僑粛清事件の際、自身も集合場所に集められ粛清に巻き込まれかけたが、禁区内の友人宅で1日半ほど待機していたところ、審査済とされ難を逃れたという。

さらに、日本語中国語の学習を始め、翌1943年から1944年までの間、日本側と協働して、昭南特別市の報道部において、連合国の通信を盗聴した内容を翻訳する業務に従事した。

戦後の1945年にイギリスへ留学ケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジ法律学を専攻し(後に名誉校友となる)、1949年に首席で卒業した後は、短期間ではあったがロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにも通い、同年に帰国した後は弁護士資格を取得し、“Laycock and Ong”という法律事務所に勤務した。
政治活動
初期

勤めていた法律事務所の上司ジョン・レイコックが親英政党・進歩党の候補者として立法審議会選挙に立候補した。この時に運動員を務めたことからの政治的経歴が始まる。しかし党が大衆、特に華人系の労働者階級の支持を得られず、リーは党に将来性がないことを直感した。1953年にレンデル新憲法が選挙権をシンガポールで生まれた全ての人々に付与することを決め、中国語話者の有権者が著しく増加した際に、この傾向は特に明確なものとなった。

労働組合学生自治会の法律顧問として雇われていた際、華人系の住民と繋がりをもつようになり、労働組合の運動指導者にまでなり、これがリーにとって大きな転機となった(後にリーが創設する人民行動党は、この歴史的な絆を、ストライキの際の交渉手段として利用することとなる)。1950年には「イギリスを追い出し独立を達成できるのはマラヤ共産党だけである」と演説している。共産主義には疑問を感じていたが、マラヤ共産党の抗日・反英運動への貢献は認めている。
人民行動党の創設

1954年11月21日、“ビールを飲むブルジョアたち”と称した英語教育を受けた中産階級グループと共に人民行動党を創設した。党の創設は容共的な労働組合との政略的な連携を通じたものだった。これは英語教育を受けた層は容共派からの多くの支持が必要だった一方で、マラヤ共産党が違法とされており、共産主義者たちがカモフラージュするための非共産主義政党を欲していたことに起因する。この連携をリーは“政略結婚”と称した。両派の共通の目的は、自治に賛成する世論を喚起し、イギリスによる植民地支配に終止符を打つことだった。

結党式は、ビクトリア記念ホールで開催され、会場は1500人にも及ぶ支持者と労働組合員たちで埋め尽くされた。リーは党書記長 (Secretary-General) となり、後述する1957年の一時期を除いて、1992年までこの地位を保持する。結党式には、マレー人及びムスリムが支持層の統一マレー国民組織 (UMNO) のトゥンク・アブドゥル・ラーマンや、華人系の住民を代表するマレーシア華人協会のタン・チェンロクが、新党に信頼を与えるためのゲストとして招請された。

当時のムスリムと共産主義者との蜜月は、リーが回顧録で後に制定するシンガポールの国旗の三日月は国内のイスラム教徒に配慮し、五つの星は国内の共産主義者に配慮して中華人民共和国五星紅旗をモデルにしたと語っていることにもあらわれている[2]
野党時代

1955年の初当選以降は、野党指導者としてデービッド・マーシャル率いる与党の労働戦線による連立政権に対抗し、ロンドンでマーシャルと彼の後継者であるリム・ユーホクによって二度にわたって開催されたシンガポールの未来に関する会議にも人民行動党代表として参加した。

一方で、リーの容共的な側近たちは、しばしば過激な行動に出る集会に参加したことから、リーは彼らから距離を置くようになったが、その一方で事あるごとに政権与党を無能であると批判し続け、この頃からリーは党内外の政敵たちと戦わざるを得ないようになった。

1957年に容共派が偽の党員たちを利用して党権を掌握すると、リーは一時的に書記長の地位を追われるが、リム・ユーホクが共産主義者たちの一斉検挙を命じたため、リーは書記長に復帰した。

リーが次の選挙に備える間、党内の共産主義による脅威は一時的に取り除かれたが、これと同時期に、リーは共産主義陣営のリーダーであるフォン・チョンピクと初めて密会の席を設けた。
自治政府時代

1959年6月1日の総選挙で、人民行動党は51議席中43議席を獲得した。シンガポールは、国防と外交を除いた国内問題に関する自治権を得るようになり、6月3日にリーは首席長官だったリム・ユーホクに代わって、シンガポールの初代首相に就任した。首相に就任する前には、リム・ユーホク政権下で逮捕されたリム・リンシオンとデヴァン・ナイルの釈放を要求して、実現させている。

リーは教育住居失業などさまざまな問題の解決に取り組み、住宅問題に関しては「住居及び開発委員会 (Housing and Development Board, HDB)」を設立した。

マラヤ連邦の首相であるラーマンが、1961年にマラヤ連邦とシンガポール、サバ州サラワク州を含む連邦の形成を提案した後、リーはマラヤ連邦との合併を実現するべく、イギリスの植民地支配を終えるための運動を開始した。そのために、1962年9月1日に実施された国民投票の結果を利用し、そこでは、投票者の70%がリーの提案を支持したという結果が出されており、住民の大多数がイギリスからの完全独立を望んでいるということを如実に表していた。

リーはこれらの運動の間に、合併に対して強硬に反対し一説では破壊活動にも関与していたとされる容共派のグループを壊滅に追い込んだ。
マレーシア時代

1963年9月16日、シンガポールは晴れてマレーシアの一部となったが、連邦は短命に終わる。UMNOによって支配されているマレーシア政府は、シンガポールの住民の大多数を占める華人系住民の包含と、マレーシアにおける人民行動党の政治参加に懸念を抱くようになった。リーは公然とブミプトラ政策の「マレー人などの土着民を優遇するマレーシア」に反対し、人民行動党のスローガンとして「マレーシア人のためのマレーシア」を主張した(当時シンガポール島の華人系住民もマレー人も含めて「マレーシア人」であり、マレー人のみへの優遇政策を批判した)。このことから双方の関係は悪化してしまい、UMNOの中にはリーの逮捕を主張する者もいた。

人種間の対立は激しさを増し、預言者ムハンマドの誕生日である1964年7月21日には、マレー人と華人系住民が激突し、23人が死亡、100人以上が負傷するといった事態も発生した[注釈 1]。同年9月にはさらに大規模な暴動が発生し、事態の収拾を図るため、双方のリーダーであるリーとラーマンが、そろって公の場に姿を見せることを強いられた。食糧を含む物資の輸送に著しい困難を来すようになり、物価が劇的に上昇し、国民の生活にさらなる困難を招いた。

事態の解決は絶望的な状況になり、首相であるラーマンは「中央政府への忠誠を示さなかった州政府とは、全ての関係を断ち切る」といった方針から、シンガポールをマレーシアから追放することを決定した。リーは連邦に留まろうと頑ななまでに打開策を考え続けたものの、失敗に終わった。1965年8月7日、リーはマレーシアからの分離に合意する文章に署名した。

このことは、マレーシアとの合併だけが、シンガポールが生き残るために重要と考えていたリーにとって、大きな打撃となった。そして、8月9日にシンガポールの独立を発表するテレビ中継の中で、私にとって、今は苦渋の時です。生涯、私は二つの領域の合併と統一を信じてきました。私リー・クアンユーは、自由と正義の原則、多くの人々の福祉と幸福の探求、平等な社会を築くことに基づき、本日1965年8月9日に、シンガポールが永久に主権民主主義、ならびに独立国家であることを宣言いたします。 ? リー・クアンユー

と市民に語り掛けた上で、シンガポールの独立を宣言した。独立自体が、かつてのマレー独立運動の盟友であった、ラーマンからの追放宣言に等しかったこともあって、生放送の最中には、自制心を失って泣きだす場面もあった[注釈 2]
首相時代

1965年8月9日に、マレーシア議会は、マレーシアの州としてのシンガポールとの関係を断ち切る決議を可決し、これにより、独立国家としてのシンガポールが成立した。天然資源の欠乏や水源の乏しさ、国防能力の脆弱さなど、リーとシンガポール政府が取り組まなければならない問題は山積していた。

自叙伝によると、リーはマレーシア時代に不眠症に悩まされ続け、シンガポールの独立直後は、病気で倒れたこともあった。

イギリスのハロルド・ウィルソン政権で、高等弁務官を務めていたジョン・ロブから、シンガポールの国家としての資質について懸念されたこともあったが、その際リーは「シンガポールについて心配する必要はありません。


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