杉浦茂
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しかし、杉浦はネタの引出しが少なく、苦肉の策として別の雑誌に同じネタを使い回すこともあり[21]、この傾向はその後も続いた[22]。また、戦前の作品からは、描線や登場人物の表情に横井福次郎の影響も見受けられる[23]。杉浦の元には、洋画家の岩月信澄(栗原信門下)と日本画家の加藤宗男(堅山南風門下)という同い年の2人の親友がアシスタントに入った[注釈 7][24]

1933年(昭和8年)には、家から独立。杉並区高円寺のアパートに移り住んだのち、翌1934年に音羽の小石川アパートへ引っ越し、同アパートに住んでいた挿絵画家の霜野二一彦、漫画家の広瀬しん平と親交を得る。その後、1936年には本郷区本郷森川町にある徳田秋声の経営する不二ハウスへ移った。

1937年(昭和12年)、田河を顧問に昭和漫画会が結成され、杉浦もその一員となる。この頃より、軍役召集が始まり、漫画家にも令状が届くようになったため、その5月より田河が創刊した『小学漫画新聞』[注釈 8]は、発行停止を余儀なくされる。また、国家統制に関る漫画家団体として、1939年、宮尾しげをを会長に日本児童漫画家協会が結成され、昭和漫画会同人全員とともに杉浦も参加。この後も、1940年に新日本漫画家協会、1942年に少年文学作家画家協会が発足し、1943年には、新日本漫画家協会が発展解消、大政翼賛会肝煎で日本に居た全漫画家が入会した日本漫画奉公会(会長北沢楽天[25]が結成され、杉浦もそれらに参加した。

戦争が激化するにつれ、政府は企業への統制を強めた。出版社が統廃合され、雑誌の数も減少し[注釈 9][26]、雑誌の仕事[注釈 10]が無くなるにつれ、多くの漫画家は発表の場を単行本へ移した。杉浦も1941年(昭和16年)に初めての単行本『ゲンキナコグマ』を国華堂書店より出版。その後も啓蒙的な教育作品を制作し、単行本での発表を続けた。戦前期の杉浦は、主に国華堂書店から10冊の描下ろし単行本を出版した。

1943年(昭和18年)に結婚し、横浜市港北区妙蓮寺から江戸川区小岩町へ移り住む。しかし、結婚披露宴の費用で貯金を費やし[27]、単行本の仕事も無くなり[注釈 11]、漫画家生活を諦める寸前にまで陥ってしまう。前年に出した『コドモ南海記』(国華堂書店)の印税が頼りで、仕事机や本棚、結婚祝いの柱時計も古道具屋に売ってしまうほどだった[28][29]。そんな時、電車内で、通勤途中であった旧友の漫画家岡田晟(倉金と同郷で親友)と偶然出会い、そのまま勤め先である映画会社の茂原映画研究所に同行し、就職させてもらう[注釈 12]。杉浦の後に、仕事に困っていた旧知の漫画家の帷子進もここで働いた。杉浦は軍関連の教材映画のセル画の仕事を担当した[30]

元来病弱な杉浦は、徴兵検査で丙種とされていたたが、1945年(昭和20年)7月に召集を受け、世田谷の砲兵連隊に入隊、熊本県へ派兵される。アメリカ軍の有明海上陸に備え、玉名郡梅林村の梅林国民学校[注釈 13]に駐屯し、首から吊るした火薬箱を両手で抱えて人間爆弾として突撃するための訓練などを受けたが[31]、急な環境の変化[32]と栄養失調[33]により下痢を起こし、半病人となった。
戦後の黄金期(第二期)

終戦後、杉浦は1945年(昭和20年)9月末に復員したが、翌年まで漫画の仕事は無く、食料(さつまいも)の確保に明け暮れる。戦中の勤め先であった茂原映画研究所は、日本映画社(日映)に吸収されてアニメ映画専門の会社となり、後に漫画家となる福井英一と知り合えたものの、杉浦と同僚の帷子はアニメ映画が大嫌いだったことから、共に会社を辞めることになる[34]

1946年(昭和21年)、杉浦は、帷子宅で出版社新生閣の社長鈴木省三に紹介される[33]小学館出身の鈴木は、新生閣で当時大流行していたこども漫画に注力していた。杉浦は、単行本『冒険ベンちゃん』を描き下ろし、これが戦後初の漫画仕事となった。その後、新生閣では西部劇を中心に執筆し、同社発行誌の『少年少女漫画と読物』には『冒険ベンちゃん』や『弾丸トミー』、『コッペパンタロー』(後に『ピストルボーイ』に改題)を連載した。

鈴木は、経営不振の責任を取って新生閣社長を辞任後、1953年に小学館出版部長に復帰し、同じ一ツ橋グループ集英社出版部長を兼任。集英社で『おもしろ漫画文庫』を創刊した。杉浦の代表作となる『猿飛佐助』は、その21巻目として描かれた。同作は12万4千部刷られ、同文庫の中で一番の売上を記録[35]。この大好評を受け、『猿飛佐助』は雑誌『おもしろブック』(集英社)に連載となる(1954年3月 - 1955年12月)[注釈 14]。また、これをきっかけに杉浦の仕事は大幅に増え、1958年までの 5年間の間(46歳 - 50歳)に、後の代表作となる様々な長編漫画が生み出された[3]。忍術物の『猿飛佐助』、『少年児雷也』、完全オリジナルの『ドロンちび丸』。西部劇では、背景の描き方等にアメコミの影響が見受けられる『弾丸トミー』[36]、『ピストルボーイ』、SF物の『怪星ガイガー』(改題改稿して『0人間』)などである。また、コミカライズ作品では『モヒカン族の最後』[注釈 15]、『ゴジラ』[注釈 16]、『大あばれゴジラ』[注釈 17]がある。


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