杉浦忠
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^ 坪内は自著で杉浦と長嶋が中日の球団事務所を訪れて入団を願い出た出来事について「1955年(昭和30年)9月、杉浦・長嶋は2人で西銀座の中日球団事務所を訪れ、応対した中村三五郎球団代表に対し『中日に入団させてほしい』と申し出たが、中村から諭されて帰された」と述べている[10]。一方、近藤唯之は自著『プロ野球 運命の出会い』 (2006) で、親交のあった高田一夫(当時:球団代表代行)の「2人は2年生の暮れごろ、名古屋の中日本社に突然がやってきて『中日に入団させてほしい』と申し出た。しかし、球団代表代行を務めていた自分が『とにかく卒業してからこい。大学生は勉強が本分なんだから』と説教した」という証言を取り上げている[12]
^ この逸話を取り上げた杉井輝応は、長嶋と親交のあった鶴田浩二について取り上げた自著『鶴田浩二』 (1997) で「(もし2人の中日入団が実現していたら、杉浦が入団した)南海の御堂筋パレード(優勝パレード)は名古屋の広小路(優勝)パレードになっていたかも知れない。(長嶋が入団した)巨人のV9は中日のV9になっていたかも知れない。中日は惜しい逸材を逃したものだ」と述べている[13]
^ 長嶋の翻意は母と兄が懐柔されたためとも言われている。また長嶋はプロ入り後、立教時代に受け取った栄養費と同額の金を返還している。
^ 同年は小野正一大毎オリオンズ)が奪三振以外の投手四冠だったが、小野の五冠を阻んで最多奪三振を獲得したのも杉浦だった。
^ 杉浦の188試合での通算100勝は、スタルヒン(165試合)、藤本・田中将大(共に177試合)、野茂英雄(185試合)に次ぐ歴代5位の記録である。
^ 当時は認定放送持株会社移行前のため、旧法人(現・MBSメディアホールディングス)。
^ なお、杉浦以外の二人について、松沼は山田と金城基泰、山田は秋山登皆川睦男、渡辺は山田と仁科時成の名を挙げた。
^ 年間34勝以上を挙げた他の6投手は、いずれもその年に6敗以上しているため

出典^ a b “ ⇒『豊田市郷土資料館だより』No.105”. 豊田市郷土資料館 (2019年9月17日). 2023年11月2日閲覧。
^ 『プロ野球データブック'84』(宇佐美徹也著、講談社文庫、1984年)p.421
^ a b c d e f 「南海ホークス栄光の歴史 1938-1988」ベースボールマガジン社 2012年
^ a b 野村克也「一流の条件 プロ野球 野村克也の目」朝日新聞社 1986年
^ 「Sports Graphic Number PLUS 1999年8月号」 文芸春秋社
^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、287ページ
^ a b c d e 野球殿堂2012 The Baseball Hall of Fame 野球体育博物館(編集)ベースボールマガジン社 2012年
^ a b c d スポーツグラフィック ナンバー編「豪球列伝」文春文庫ビジュアル版 1986年
^ a b c 「日本プロ野球偉人伝5 1959-1964 「長嶋時代」の74人」ベースボールマガジン社 2013年
^ a b c d e f 増田護「長嶋さんの中日入りを思いとどまらせた男 立教大のミスターと杉浦忠さんを諭した球団代表がいた【コラム】」『中日スポーツ中日新聞社、2020年4月12日。2020年11月21日閲覧。オリジナルの2020年11月21日時点におけるアーカイブ。
^ a b c 近藤唯之 2006, p. 58.
^ a b c 近藤唯之 2006, pp. 57?58.

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