杉浦忠
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入団後は新人ながら開幕投手を務め、対東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を挙げた[15]。鶴岡が試合後に「固くなったのか?と聞くと、『固くなりました』と言っていた」と言ったように[14]立ち上がりこそ不安定だったが、味方の大量援護に落ち着きを取り戻したものだった。下手から浮き上がる速球と横に大きく曲がるカーブで相手打者を手玉に取り[7]、この年は27勝を挙げて新人王を獲得、鶴岡を「これでやっと西鉄を叩くことが出来る」と喜ばせた[7]

2年目の1959年は38勝4敗(勝率.905)という驚異的な成績で[16]南海のリーグ優勝に貢献し、MVPを満票で獲得、日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では第1戦から4連投し、4連勝の大活躍で南海を初の日本一に導き、シーズンに続いて日本シリーズMVPを獲得した。試合後に記者団の問いに、杉浦は「一人になったら、嬉しさが込み上げてくるでしょう」と言ったつもりだが、「一人になって泣きたい」という言葉が一人歩きしたと、自叙伝で語っている[17]。同年には54回2/3連続無失点のパ・リーグ記録を樹立しているが、この記録は直前の8月26日から9月9日にかけて43回連続無失点を記録し、9月13日の対西鉄ライオンズ戦で失点、15日の対近鉄パールズ戦で2回に1失点した直後の3回から作られたものである[18]。また、同年は日本プロ野球史上5人目、リーグ分立後は2人目となる投手五冠王(勝利、防御率、奪三振、完封数、勝率)を達成しているが、この記録は2022年現在までに杉浦の他に沢村栄治(読売ジャイアンツ、1937年春)、ヴィクトル・スタルヒン(読売ジャイアンツ、1938年秋)、藤本英雄(読売ジャイアンツ、1943年)、杉下茂中日ドラゴンズ、1954年)、江川卓(読売ジャイアンツ、1981年)、斉藤和巳(福岡ソフトバンクホークス、2006年)、山本由伸(オリックス・バファローズ、2021・2022年)の8名しか達成していない大記録である[18]。しかも杉浦の五冠は、各部門で2位以下を大きく引き離しての達成であり、スケールの大きさは史上最高ともいえるものだった。

1960年も31勝を挙げ[注 5]、シーズン30勝以上を2度以上記録したのも杉浦以外にはスタルヒン、野口二郎別所毅彦、杉下、稲尾和久金田正一権藤博だけの大記録を達成した。1961年5月には通算100勝を達成、プロ入りから僅か3年1ヶ月、188試合目での史上最速記録だった[注 6]。この年も9月初旬に20勝に到達するが、まもなく右手が痺れる不調を訴える。阪大病院で診察を受けると、最初は2-3日休めば投げられるとの診察が出た[14]。しかし、連投による右腕の血行障害(動脈閉塞)が判明し[19]、9月15日に東大病院で手術を受け太股の血管の移植手術を受け、残りはリハビリに費やすなど、シーズン閉幕まで戦列を離れた。1962年には復帰したが、1963年とそれぞれ14勝止まりとなり、故障後は握力が大きく落ち、50球ほど投げただけで腕が強張るようになってしまった[17][20]1964年は症状がやや緩和して20勝を挙げ、1965年も開幕から6連勝と好調だったが、5月下旬頃から症状が再び悪化し、医師から「3イニング以上は投げられない」と診断された。そこで鶴岡は6月以降杉浦をリリーフ専任にし、抑えの切り札として起用することにした[21]。杉浦は「僕が(抑えの切り札としては)パ・リーグの元祖ですかね。リリーフ成功率は高かったですよ。前の投手が出したランナーを返したことは無かったと思います。セーブ制度があればかなり行ったでしょうね」と語っている[9]。また、野村克也は1977年にこの杉浦の起用法を模倣して完投能力を失っていた江夏豊をリリーフに転向させ、成功を収めている。

杉浦はこの年限りでの現役引退を決め、翌1966年から南海の一軍投手コーチに就任することになったが、ジョー・スタンカの退団などで投手陣が手薄になったことから、開幕直前の4月5日にコーチ兼任で現役に復帰した[22](但しコーチ兼任は1967年まで[23])。現役復帰に際して鶴岡が「投球回数は三回まで、救援に使うことになるだろう」とコメントした[22]通り、リリーフで起用され好成績を残してはいたものの故障が完全に癒えたわけではなく、杉浦は何度も球団に引退の意思を訴えたがその度に強く慰留された[24]1969年オフに野村が選手兼任監督に就任した際にも引退させてほしいと訴えたが[25]、野村から「ベテランと若手、選手とコーチのパイプ役になってベンチにいてくれ、チームとして必要なことだから」と頼み込まれ、痛みをこらえて現役を続行した[26]。幸い1970年に新人の佐藤道郎が抑えの切り札として定着したこともあり、杉浦は同年オフに改めて引退の意思を野村に伝えた。野村も「なんとか、いままで残ってもらったが、いつまでも無理はいえなかった」と引き留めを断念し[27]、12月4日に球団も引退の申し入れを了承した[24]


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