杉村春子
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築地座の解散後の1937年岸田國士久保田万太郎岩田豊雄らが創立した劇団文学座の結成に参加[出典 18]。直後に友田恭助が戦死したことで妻の田村秋子が文学座に参加せず[19]、同劇団の中心女優として力を付けていく[出典 19]1938年花柳章太郎新生新派に客演し、大きな影響を受ける[出典 20]。時のファッショ的政府の弾壓により、新協新築地の両有力劇団が解散[23]、優秀な新劇役者の多くが舞台から退いたり、映画界に身を投じたり四散し[23]、文学座以外に充実した新劇運動が見られなくなったことも杉村にとっては幸運だった[23]。文学座は戦争協力劇団だった関係で、戦中に唯一弾壓を逃れた[24]1940年に『ファニー』で主役を演じて以降[3]、文学座の中心女優となった[出典 21]。文学座に観に行くということは杉村春子を観に行くことと、殆ど同義語に化した[23]。また、文学座以外の舞台にも出演し、日本演劇界の中心的存在として活躍した[出典 22]

特に1945年4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作『女の一生』の布引けいは当たり役となり[出典 23]1990年までに上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた[出典 24]。作中の台詞 だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの。間違いと知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ は、生涯女優の一生を貫いた杉村の代名詞として有名[出典 25][注釈 1]。初演はわずか5日間だったが、6000人を動員[出典 26]

戦後第一回の文学座の公演は大失敗し[32]、みんな意気消沈したが、1947年夏に初めて日本橋三越劇場でやった森本薫追悼公演「女の一生」が大成功し、みんなにもういっぺん芝居をやろうという気を奮い立たせるきっかけになった[32]

そのほか、日本のそれまでの芝居になかった"女"のすべてをリアルにさらけ出した『欲望という名の電車』のブランチ役(上演回数593回)[出典 27]、『華岡青洲の妻』の於継役(上演回数634回)[出典 28]、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』のお園役(上演回数365回)[出典 29]、『華々しき一族』の諏訪役(上演回数309回)などの作品で主役を務め、『女の一生』と並ぶ代表作とした[出典 30]。いくつもの当たり役を持つ舞台女優は稀である[10]

1948年には「女の一生」により演劇部門で戦後初の日本芸術院賞を受賞した[出典 31]。「女の一生」は1961年夏の公演で500回を越え[32]、日本の新劇では最初のケースだった[32]

1958年、日本新劇俳優協会設立に常任理事として参画(1995?1997年、三代目会長)[42]。同年、第10回NHK放送文化賞[10]

60年安保前後から左翼に接近、安保反対のデモ行進に積極的に参加した[20]1960年6月15日水曜日)に参議院国会参議院面会所前であった新劇人会議のデモに暴力団が殴り込み、80人の負傷者を出したが、杉村は劇団の若い女優たちのスクラムに守られて難を逃れた[20]衆議院南通用門で樺美智子が惨死したのはその数時間後だった[20]。文学座分裂の動きは安保闘争のさなかに芽生えた[20]。脱退した劇団員はこのとき無関心を装った人たちだった[20]1961年、平和7人委員会の創立に参加[10]

劇団の中心的存在になっても、いつ役を降ろされるかと怯え、常に自らを律し精進を続ける[13]。半面、好き嫌いで配役を決め、ライバルへの敵意をむき出しにし、思い通りにならないとヒステリックに仲間を怒鳴りつける一面もあったといわれる[13]

1963年1月、杉村の感情の起伏が激しい性格と、専横ともいえる劇団への統率ぶりに不満を持った芥川比呂志岸田今日子仲谷昇神山繁加藤治子小池朝雄ら、中堅劇団員の大半が文学座を集団脱退し[出典 32]現代演劇協会劇団雲を結成[出典 33]。さらに同年12月には、それまで杉村主演の戯曲を書いていた三島由紀夫の新作戯曲『喜びの琴』の右傾化に激怒して上演を中止させた[出典 34]喜びの琴事件)。この上演拒否問題により、翌1964年1月、三島を筆頭に丹阿弥谷津子中村伸郎賀原夏子南美江ら、文学座の古参劇団員が次々に脱退していった[出典 35]。これら脱退者により岩田豊雄獅子文六)と三島を顧問とするグループNLTが設立された。杉村は、これらの脱退メンバーの大半とはその後の関係を断絶し、特に反杉村を鮮明にしていた福田恆存が代表となった劇団雲に参加したメンバーに対しては、「NLTに行った人たちとは充分に話し合ったので何とも思っていません。でも雲に行った人たちのことは一生忘れませんね。あんな卑怯な…まるで騙し討ちですもの」とはっきり話し[43]、共演を頑なに拒否するなど終生許すことはなかった[47]

文学座は、主要メンバーの2度にわたる大量離脱で創立以来最大の危機を迎え、当時の新聞は崩壊に瀕する文学座などと書きたてたが[48]太地喜和子江守徹樹木希林小川真由美高橋悦史ら若手を育てることにより乗り切った[出典 36]。とくにテレビ時代を迎えていた時流に乗って、次々にテレビに新人を送り込んだ功績は大きい[出典 37]。自身もニューメディアのテレビに積極的に出演した[出典 38]

但し杉村の専横に批判的だった人物が抜けてしまったことにより、杉村の劇団に対する独裁に近い影響力にさらに拍車がかかったとの見方もある[14]。「喜びの琴事件」で三島由紀夫は、杉村に対し「俳優は、良い人間である必要はありません。芸さへよければよいのです。と同時に、俳優は、俳優に徹することによつて思想をつかみ、人間をつかむべきではないでせうか。組織のなかで、中途はんぱなつかみ方をするのはいけないと思ひます」と皮肉をまじえて批判している[52]


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