杉原千畝
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^ 杉原は本省からの問い合わせに対し、ビザ発給数は2,132、うちユダヤ系は約1,500と返電[141]
^ 杉原が発給した日本通過ビザはあるが行先国ビザがないもの。偽造ビザの可能性が高い[143]
^ Jewcom資料はJDCへの報告のために作成されたもの。
^ 原文はポーランド語、google翻訳で英訳。文中に「ポーランド系はキュラソー行きビザのみを所有していた」と記されているが、福井県の調査から実際には多くの正規ビザ入国者がいた。
^ シベリア鉄道は6月16日に閉鎖され、Jewcom資料と合致せず、JDC年次報告書にも説明(難民の日本滞在費全額を支援)がなく、外務省資料にもこれを裏付ける記録がない。なお、他に約200人がウラジオストクから直接上海へ渡り合計3,000人との記述があるが、約50人との記録がある[158]
^ 『新版 六千人の命のビザ』1993年には、序文で、エドモンド・ロスチャイルド卿が「約六千人の命を救うという」と記述。
^ 原著はヘブライ語1984年、英語版"Refugee and Survivor: Rescue effort during the Holocaust" は1988年発行。
^ 在日ポーランド大使資料では946人。JDC年次報告書(1941年)pp.33には1,300人とあるが、これは上海経由でその他の国へ出国した人を含んだ人数。
^ 出典の表の合計値は、小計の合計値で修正。
^ 在日ポーランド大使資料では400人。
^ 藤沢市の南部中央にある鵠沼は、広田弘毅、杉原千畝、森島守人という三名の著名外交官ゆかりの地である。
^ ゾラフ・バルハフティクイスラエル共和国宗教大臣)は新生イスラエル建国の重要人物となった。
^ かつて「外務省の同僚であった人たち」の間で流布していた風説[179]
^ 『孤立する大国ニッポン』が出版された1981年の時点で、千畝はまだヤド・ヴァシェム賞を受賞 (1985) しておらず、幸子夫人による回想録の初版 (1990) も出版されていない。
^ 四男・伸生(のぶき)は、ポーランドの作家、マレク・アルテールに対し、千畝の名誉回復の動きについて、「リトアニアが独立したときのことで、新生リトアニアにたいする日本政府からの贈り物のようなもの」[187]と述べているが、その洞察の正しさを裏付けるかのように、[独自研究?]リトアニアとの国交回復の日に行われた千畝への顕彰演説のなかで、河野外務大臣は、「杉原氏が御活躍されたリトアニアと我が国との間の新たな外交関係が9年前に始まった今日、すなわち10月10日という機会に、外務省としても、同氏の業績を改めて称え、日本外交の足跡として後世に伝える」趣旨を述べている[188]
^ 難民たちを「見捨て」ることが「神に背く」ことになるとは、「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない」(エレミア書、22章3節)という主命に違背することになるということである。
^ 「ヴァジャ・コン・ディオス!」とは、長旅などをする相手に対して「さようなら、ご無事を!」くらいの意のスペイン語だが、Adios!よりもやや改まった用法。当時の切迫した状況を考えると、「神と共に行け!」という字義通りの意味と二重の含意。「人物」欄にある千畝に対する追悼文では、後者の意味が強調されている。この言葉の初出の際、ソリー・ガノールは、"Voya con Dios. Go with God. I don't know why he said in Spanish, but the words were from the heart, and to this day those tree words invoke deep feeling in me."(「ヴァジャ・コン・ディオス」。神と共に行け。彼がどうしてスペイン語で述べたのか、私にはわからなかった。しかし、今日に至るまでこの心のこもった三語が私に深い感情を呼び起こすのである)と英語に直訳している。
^ これは、ルカによる福音書(17章10節)の「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」という個所を踏まえた表現である。
^ 「“命のビザ”杉原氏がいたから私たちがいる[224]」。cf.「多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」(ダニエル書、12:3)。
^ 『幸せな子 -- アウシュビッツを一人で生き抜いた少年』の「日本語版によせて」(p.10)には、「この日本語版を杉原氏の記念碑として捧げたい」 とある。なお、同書の日本語翻訳者の池田礼子と渋谷節子は、千畝の「名誉回復」時に外務事務次官だった小和田恆の実娘であり、著者のバーゲンソールは、国際司法裁判所における小和田恆の同僚。
^ オーストラリアの慈善事業家。元・駐メルボルン・イスラエル総領事ロナルド・クロンゴールドの父。
^ 1916年(大正5年)1月4日生まれ。外交官試験に合格し、東大法卒業後入省[231]
^ もちろん、戦後一時しのぎの仕事を転々とし、電球売りの訪問販売までして、その生涯を通じて清貧を貫いた千畝に対する事実無根の中傷である。ユダヤ人避難民の代表であり、後に新生イスラエルの宗教大臣になったバルハフティィク自身が、以下のように証言している。「それは絶対にない。ビザを取得する時には、今でもビザ代を多少なりとも支払うが、私たちはその時、ほんのわずかのビザ代のお金を払った。杉原氏が多額のお金を受け取るということは、まったくない。そんな話はでたらめだ。ビザ代はそんなに高い額ではなかったが、私も支払ったように、皆がそのビザ代のみを支払っていた。それに私たちは、多額のお金を持っていなかった」[235]
^ 1914年(大正3年)生まれ。外交官試験に合格し、東大法中退後入省。ユーゴスラビアパキスタン西ドイツ大使等を歴任。終戦の翌年6月には、「調査局第二課(ソ連関係事務の主管課)課長心得」の役職にあった[237]
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