杉原千畝
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2017年4月にアメリカ合衆国で開催された米国ユダヤ人委員会が主宰する「日本のシンドラーホロコースト救援事件における外交のモデル」と題する各国大使が集まる公式会合において、外務省冨田浩司イスラエル特命全権日本大使は、各国大使を前に「杉原の出生地である美濃市」と言及し美濃市が生誕地であることを表明した[9]
^ 教泉寺の住職が2016年に語ったところによれば、千畝がここで出生したかは不明だが、寺の庫裏で間借り人が共同生活を送っていたという[7]
^ 現在の千畝町。
^ 「外務次官」の演説を報じた当時の新聞王ハームウォーズによる「紙」面の意。
^ 「それから“Under secretary of State”を具合良く訳せない人もあったらしい。副外務卿、副外務次官、下外務大臣とやった人もあった様に聞いたが、恐らく日本の下五位式の応用であろう。こんなものは、日々の新聞を少し注意して読めば、其の国々に適した邦語が施せる道理である」と、千畝は余裕のコメントを寄せており、若き日の千畝の猛勉強と矜恃を知るユーモラスな資料となっている。この長文の受験体験記は「雪のハルビンより」と題され、研究社の許諾を得て、『真相・杉原ビザ』に転載されている[23]
^ 早稲田大学本科の『大正八年四月入学・伊呂波名簿』には、杉原千畝に関して、「八年十一月除名・英語・杉原千畝・岐阜」という記録があり、千畝の早稲田大学在籍期間は、1年半にも満たない。しかし、戦後49年経った1994年(平成6年)8月2日、千畝の事績を知って感激した早大第13代総長の小山宙丸(哲学)が、杉原夫人を訪ね顕彰状を渡し、千畝は早稲田大学「校友」として遇されることになった。小山はこの顕彰の後早大を退職、キリスト教カトリック)に改宗した[24]
^ 日露協会幹事の倉知鉄吉(対露輸出組合理事長)が、1929年に幣原外相に宛てた事業報告書には、別途「高等試験免除申請」が添付され、清水三三(東京外語卒)、水谷健行(協会学校卒)、杉原千畝(協会学校卒、ハルビン総領事館書記生)計3名の名前が職員リストに掲載されていた[33]
^ 旧満洲国外交部同人会の野中清次が所有する書簡において、笠井は、「杉原さんは北鉄買収交渉の随員でしたが、主としてハルビンにあって対ソ連諜報、特に北満鉄道の状況につき極めて詳細かつ正確な情報を蒐集され、交渉が有利に解決したのも杉原さんの活躍があったといっても、過言ではない」と述べている。満洲国側の交渉出席者は、丁士源・駐日大使、大橋忠一・外交部次長、杉原千畝。外交部北満特派員公所事務官など計6名。外交部の人員配置の詳細については、cf. 中見立夫「満洲国の外務省-- その組織と人事」、『近代中国東北地域史研究の新視角』pp.121-153. また、第1回から第6回までの会議の概要は、外務省外交史料館所蔵 (F.1.9.2.5-11) の外務省情報部『北満鉄道譲渡交渉関係発表集』(昭和9年1月)を参照。[疑問点ノート]
^ 杉原幸子夫人や長男・弘樹も洗礼を受けた。聖名はマリヤ(マリア)とイアコフ(ヤコブ)である。
^ 千畝自身の書いた杉原メモのなかに「多額の工作費提案あり、一切拒否した」という明確な記述がある[40]
^ 満洲国外交部に勤務した後輩の笠井唯計は、「杉原さんがハルビンを去られたことについての、真相は余り知られておりませんが、私の知る限り、憲兵隊の圧力があったことです」と、満洲国外交部同人会宛ての書簡で述べている[41]
^ この調書は、外務省外交史料館では、昭和戦前期外務省記録の分類で、「移民、旅券」関係のJ門の「外國ニ於ケル旅券及査證法規竝同取扱事件雜報 蘇聯邦ノ部 本省員關係」というファイルに綴じられている。
^ 書簡のなかに、戦後オーストリア大使などを歴任した古内広雄が衆議院選で「今年初めて当選した」という記述があり[51]、その初当選が1967年(昭和42年)である。
^ 文字通り訳すと「ブルジョワ的」。
^ 本来の首都は、現在と同じヴィリニュスだが、ポーランド・ソビエト戦争の結果、ポーランドに同地を奪われ、カウナスに首都機能が移転していた。ソ連のポーランド侵攻後一旦はリトアニアに返還されたが、その後ソ連はリトアニアを他のバルト諸国同様に併合した。
^ 杉原は地元紙のインタビューに対して「私が知る限り、リトアニアにいる日本国民は数人だけです」と答えている[52]
^ 通過の場合の条件は、行先国の入国手続き完了と250円以上の提示金を有することである[59]。当時の250円は、市電運転手の初任給4-5ヶ月分。
^ 原文は"Le consulat des Pays-Bas a Kaunas declare par la presente que l'admission d'etrangers au Suriname, au Curacau et d'autres possesions neerlandaises en Amerique un visa d'entree n'est pas requis.である[64]
^ 実際にソ連領として併合されてしまうと、そこからの出国は、ソビエト体制に不満を持つ反革命分子として摘発されるおそれがあったので、避難民たちは出国を急いでいた。西方からのナチスの脅威と東方からのソ連軍の進駐によって、難民たちは窮地に陥っていたのである。
^ 幸子夫人の著書『六千人の命のビザ』の巻末年譜にも掲載されている『約束の国への長い旅』(p.35) では、「私は主人に、あのユダヤ人たちを助けて下さい、とたのみました」という言葉の直前で、2章19節が引用されており、『六千人の命のビザ』(p.40) には、「ビザを待つ人群に父親の手を握る幼な子はいたく顔汚れり」という短歌が挿入されている。
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