杉原千畝
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父・好水(よしみ)は税務官吏で、上有知町の税務署に勤めていた[7][10]。一家は、近くの仏教寺である教泉寺の借間に住んでいた[11][12][注釈 3]。同寺は高台にあって見晴らしが良く、眼下に(字) 千畝[13][注釈 4]の広大な畑が見えた。

1901年(明治34年)父の上有知税務署勤務により同地に継続して居住する。1903年(明治36年)福井県丹生郡朝日村(現・福井県丹生郡越前町)へ転居する。1904年(明治37年)三重県四日市市へ転居する。1905年(明治38年)10月25日、岐阜県恵那郡中津町(現・岐阜県中津川市)へ転居する。1906年(明治39年)4月2日、中津尋常高等小学校(現・中津川市立南小学校)へ入学する。1907年(明治40年)3月31日、三重県桑名郡桑名町第一尋常小学校(現・桑名市立日進小学校)へ転校。

父親の単身赴任・名古屋市時代

同年12月に父が韓国統監府の聘用のため単身赴任。その後、名古屋古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)へ転校する。1909年(明治42年)3月1日、愛知県から「操行善良学力優等」により表彰される。

1912年(明治45年)、名古屋古渡尋常小学校を全甲(現在の「オール5」)の優秀な成績で卒業[14]後、作家の江戸川乱歩と入れ違いに旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校、場所は現・名古屋市立瑞穂ヶ丘中学校)に入学[15]

高卒後・英語学科へ

同校卒業後、当時日本統治下の朝鮮京城に赴任していた父は、千畝が京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいた。千畝の甥にあたる杉原直樹によれば、千畝の父の名は、初め「三五郎」(みつごろう)であったが、自分の命を救ってくれた杉原纐纈(こうけつ)という医師の名前から「好水」(こうすい)という音韻の類似した名前に改名し、これを「よしみ」と読んだという。父・好水が医師という職業を千畝に強く薦めたのにはこうした背景がある[16]

しかし、医師になるのが嫌だった千畝は、京城医専の入試では白紙答案を提出[17]して弁当だけ食べて帰宅[18]した。当初、英語を学び英語教師になるつもりだった[17]千畝は、父の意に反して、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。ペンの先に小さなインク壺を紐で下げて、耳にはさんで[19]登校していた逸話が残る。千畝自身の説明では、「破れた紋付羽織にノート二三冊を懐にねじ込んで、ペンを帽子に挟んで豪傑然と肩で風を切って歩くのが何より愉快」[20][21]と多少修正されるが、バンカラな校風で知られた昔の早稲田大学でも珍しい奇天烈な格好で通学していた。独特のペン携帯の流儀から、学友に「変わった人間」(ドイツ語で“Spinner”)と笑われても、「これならどこででも書くことができる。合理的だよ」と平然としていたという。しかし、実際は授業中ほとんどノートをとらず、講義内容を全て暗記していた[19]

外務省留学生試験との出合い

父の意に反した進学だったため仕送りもなく、早朝の牛乳配達など複数のアルバイトを掛け持ちしていたが、米騒動が起こりアルバイト先が次々と倒産していき、学費と生活費をまかなうことはできなかった[17]。ある日、千畝は図書館で偶然目にした地方紙の掲示(大正8年5月23日付の「官報」第2039号)により、外務省留学生試験の存在を知る。受験資格は旧制中学卒業以上の満18歳から25歳の者であったが、研究社の受験雑誌『受驗と學生』(大正9年4月号)に掲載された千畝自身の受験体験記によると、受験科目は、法学・経済・国際法と外国語2ヵ国語と、旧制中学の学修内容とはかけ離れていたため、千畝のような大学在籍者や旧制高校修了者にとっては有利であった。


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