2020年現在、松ノ木一丁目近辺が東京都全体の人口重心となっている[5]。
昼夜間人口杉並区の住宅地。中野区側から見下ろした景観
2005年時点の夜間人口(居住者)は522,582人。これに対して、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は439,379人で、昼は夜の0.841倍の人口になる。通勤者で見ると、区内から区外への通勤者は161,305人、区外から区内への通勤者は77,071人となっている[6]。国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる。
歴史
近世以前
古来 武蔵国に在り、現在の杉並区に当たる区域は多摩郡内の一部として属していた。
近世
江戸時代は武蔵国の一部であり、御府内(江戸の市域・城下町)には含まれていない。
甲州街道の第2宿高井戸宿が設けられた。
青梅街道は、当区内に宿駅はなかったが、妙法寺の門前は立場として江戸時代後期ににぎわい、落語「堀之内」の舞台となった。
甲州街道に沿って玉川上水が設置された。
現在の明治大学和泉キャンパス(永福1丁目)は、江戸幕府の「御焔硝蔵」(火薬庫)があった場所で、維新後も陸軍省和泉新田火薬庫として明治末まで使用された。
近・現代
明治・大正時代も東京市15区に含まれない地域であった。
昭和時代の世界恐慌後に多摩地域から東京市に編入が完了した。
区名の由来は、江戸時代の初期、成宗・田端両村の領主が青梅街道沿いに植えた杉並木があったことに始まる。この杉並木は明治前になくなった。その後「杉並」の名は村名として採用され、町名、さらに区名となって現在に至る[7]。
1889年(明治22年)の市制・町村制施行当時からの自治体名でありながら、同名の鉄道駅が存在せず、また同名の住所もない。都内においては、鉄道のない檜原村および島嶼部、また郡名である豊島区や葛飾区を除けばほかに武蔵野市があるのみである。
関東大震災後に、多くの文化人や学者が都心や下町から移り住んだ地でもある。
区の沿革
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での、多摩郡のうち後の東多摩郡域(現杉並区・中野区にあたる地域)の支配は以下の通り。幕府領は代官・松村忠四郎支配所が管轄。●は村内に寺社領が存在(32村)。
知行村数村名
幕府領幕府領12村●中野村、高円寺村、馬橋村、久我山村、上高井戸村、下高井戸村、中高井戸村、田端村、成宗村、本郷新田、和泉新田(和泉村のうち)、大宮前新田、松庵村
旗本領7村●上鷺之宮村、和泉村、上高田村、片山村、●和田村、●上井草村、●下井草村
幕府領、旗本領8村江古田村、雑色村、●永福寺村、●上荻窪村、新井村、下鷺之宮村、上沼袋村、下沼袋村
鉄砲玉薬組同心給地1村●本郷村
その他寺社領4村下荻窪村、天沼村、阿佐ヶ谷村、堀之内村
1868年(慶応4年)
7月10日(8月27日) - 旧幕府代官の松村長為(忠四郎)が武蔵知県事に就任。現杉並区にあたる地域を管轄。
8月8日(9月23日) - 松村長為知県事が古賀定雄(一平)に交代。
1869年
明治2年2月9日(3月21日) - 古賀知県事の管轄区域に品川県を設置、現杉並区にあたる地域は品川県に属す。
1870年
明治2年12月18日(1月19日) - 寄場組合を廃止し24の番組を設置。現杉並区・中野区にあたる地域は6・18・21・22・23番組のそれぞれ一部に相当[8]。
1871年(明治4年)
11月14日(1871年12月25日) - 品川県を廃止し東京府(第2次)が発足[9]。
1872年
明治4年12月5日(1月14日) - 現杉並区にあたる地域の東京府への編入成る。
明治5年1月22日(3月1日) - 現杉並区にあたる地域が神奈川県に移管される[10]。後の東多摩郡(現杉並区・中野区)に相当する地域32村が東京府に戻る運動を展開。
8月19日(9月21日) - 現杉並区域20村(高円寺村・馬橋村・永福寺村・上荻窪村・下荻窪村・久我山村・上高井戸村・下高井戸村・中高井戸村・田端村・成宗村・和泉村・大宮前新田・松庵村・和田村・上井草村・下井草村・天沼村・阿佐ヶ谷村・堀之内村)が東京府の管轄に戻される[11]。9月10日(10月12日)に編入成る。