朴?美
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家ではだらしないとして流行のファッションをしていると怒られ、父とは20歳になるまで敬語で会話していた[41]。父は単身赴任が多く家にあまりいなかった[42]。母は、日本語を知らぬまま来日していたが、凄く努力して新聞などを独学で日本語を学んでいたようで、日常会話は日本語であった[41][42]。母は朴を在日韓国人学校、朝鮮人学校に入れるつもりも全くなかったようであったことから朴に韓国語を強要したことは一度もなかったという[42]。母は、朴をアルバイトもさせてくれなかったことから馬鹿かわいがりしていた[42]。後述の彼氏が出来た時には彼を「どういうつもりなんですか?」と呼び出していたことから大変であった[42]。その時に「真剣にお付き合いしているのだったら私のいる前でしか会わないで」、とも言っていたという[42]。中学は地元の公立校では不良になるとの心配から、母の意向で私立校に通い[41]、高校は自分の居場所を求めて韓国の学校へ進学することを希望するも許されなかった[43]。また姉は、日本になじめずに、韓国に行っていた時期もあり[44]、中学進学時にも「韓国に行きたい」と言っていた[45]
デビュー前

元々、演劇に興味を持っていたわけではなく、高校で演劇部に憧れの先輩がいたこと[43]、先輩に誘われたことがきっかけ[44][46]。両親からは「高校生になったら部活動してもいい」と許しが出たため、先輩の言葉に乗り、演劇部に入部[44]。演劇部に入ると、みんなで作品を作り上げることが好きになり芝居にのめり込む[46][44]。当時は学校の演劇部としての活動は、ほどほどだったが、地区大会のようなものには出場していた[44]。顧問の教師からもあまり干渉はされず、自由奔放にしてもらえたという[44]。演劇部の1年目は役をもらえるわけではないため、一番最初は照明を担当していた[47]。当時は部活動だったが、芝居の演出も生徒が色々な役割分担をそれぞれに受け持つかたちで運営していたことから、演出に興味があったという[44][46]

脚本は色々で、当時は人気のあった野田秀樹の作品などを上演していた[44]。野田作品の舞台は観たことは一度もなかったが、勝手に自分なりの解釈で舞台を演出していた[44]。短大生になり初めて夢の遊眠社で野田の演出の舞台を観て、「オリジナルはこうなっていたんだ」と感激していた[44]

高校3年の時に出場した全国高等学校演劇大会の地区大会で、ミヒャエル・エンデの『モモ』の登場人物を全員女性に改稿して演じていたが、本番で演じている最中に停電になってしまい、上演は中止になった[46]。当時は灰色の女役でちょうど舞台に立っていた時に真っ暗になったため、「これだけ稽古してきたのに、もう演じられないのか」とものすごくショックを受けてしまったという[46]。朴以外の部員も皆、号泣したりパニックを起こしたりとおかしなテンションになっていた[46]

電源が復旧しもう一度最初から演じられることになった時には、冷静になってしまい、灰色の女にしか見えなくなっていた[46]。今まで感じたことのないすごく変な感覚だったが、それを味わってしまったところ演劇のとりこになっていたという[46]。このことを、「やはり、どこかで苦しかったのかな」と語っている[44]

日常を生きていく上で、現実感がなく、日本の社会に入り、溶け込もうとしても中々そうもいかず、何かしらで必ず自分の中に違和感を感じてしまった[44]。それが演劇の中でやっと一つになれる実感があったんだという[44]。その頃、「自分はもしかしたら精神を病んでしまっているのではないか」と思い、母に病院に連れていってもらったこともあった[44]。その病院の医師が、重度の患者に会わせてくれて、「君は病気じゃないよ」と言ってくれたという[44]

今まで何に対しても興味が持てなかったが、初めて集中して興味を持てたのが演劇だった[47]。他の表現方法で興味が持てなかったのは、絵は面倒くさく、気にし出すと凝り性な部分があるため、絵の具も全種欲しくなり、全部が手に入らないと悲しかったという[47]

舞台など、ほとんど観ておらず、基本的には不器用なため、一転集中型だった[44]。2009年時点でもそうだが、一つ集中することがると他のことを一切しなくなってしまう傾向があるという[44]

大学は今度こそ韓国の学校に行こうとするも、当時の韓国は学生運動が盛んで危険だったこともあり、母から日本での受験を勧められる[48]。その時は進路を決める時期で、中学高校と女子校だったため、「もう女子だけの環境はイヤ!」と思い、エスカレーター式の女子大に進学したくなかったが、両親は大学進学希望だった[46]。母は朴がそのままエスカレーター式で大学に進学してくれると思い込んでいたようだったという[47]。朴は、芝居の他にも、ビーズなどで小さくて細かいものを延々と作っていることが好きだったため、「アクセサリーなどを作る人になりたい」と思い、専門学校の資料を取り寄せたりしていた[47]。しかし両親が「大学進学以外は絶対に認めない、大学に進学しないなんて朴家の恥だ」と言われた[45]。何が何でも大学への進学は嫌で、他の選択肢を考えていなかったため、困っていたという[45]。「何とかしよう」と思い、両親に「姉のように韓国へ行かせてくれないか」と頼んでいた[45]。その時、「頼むから日本の大学に行ってくれ、今いる上の大学が嫌ならどこでもいいから受験してくれ」と懇願されたという[45]。演劇に比重を置いていたせいで受験準備もしていなかったことから、友人から聞いた試験科目が国語と実技だけだった桐朋学園芸術短期大学演劇科を受験する[45][48]。最終的には偶々演劇の大学に行ったが、もしアクセサリー関係の大学を知っており、両親が許してくれていたら、「今頃は立派なアクセサリーデザイナーになっていた」と語る[45]

大学入学後にできた1浪して入学して年齢的には1つ上であった彼氏が立ち上げた劇団に参加[46][45][49]。彼の演出は演者を扱うことが上手く熱い人物で朴がとある少女役を稽古していた時、「あのさ、形はよく分かったからもういいよ。お前が全く見えてこないんだよ」と言い、電気を消されて、「足りねぇ!」、「跳ねろ!」、「走れ!」と怒鳴られまくっていた[49]。無我夢中で跳んだり跳ねたり走ったり暗闇の中、何も見えないところで、ただ真剣に身体を動かしていたところ自然と心も動き自分に集中できるようになった[49]。そのうちに、朴自身も気付いてなかったものがどろどろっと出てきたという[49]。朴は演出家希望だったが、彼の演出家としての才能に圧倒されたことから演出することを断念したという[49]。当時の朴は、周囲のことなどどうでもよく、人からどう見られているかなど気にもならなかった[42]。それまでどこか箱入り娘であったが、かき乱れ、朴自身の殻をいっぺんに壊された感じで彼のことを心の底から尊敬しており好きであった[42]。彼は大変人気者で、多くの同級生が彼のことを気にしていたと語り、モテモテであった[42]


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