1961年5月の軍事クーデターで第二共和国体制を崩壊させて国家再建最高会議議長に就任し、民政移管後の1963年から1979年まで大統領(第5代から第9代)を務めた。彼の時代から約30年間にわたって『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が実現され、韓国は世界最貧国の層から脱したと評価される[5]。
一方、1972年の自己クーデター及び憲法改正(十月維新)で大統領任期と重任制限を撤廃することで永久執権を図ろうとし、また民主化運動をスパイ操作や司法殺人などで弾圧したとして「独裁者」との批判的評価も受けていた。
本貫は高霊朴氏。号は中樹(チュンス、??)。創氏改名による日本名は高木 正雄(たかぎ まさお)[6]。1番目の妻に金好南(朝鮮語版)。2番目の妻に文世光事件で暗殺の犠牲となった陸英修。好南との間に長女の朴在玉(朝鮮語版)。英修との間に、次女で第18代大統領の朴槿恵と、長男でEGテック現会長の朴志晩がある。 日韓併合後の朝鮮半島に朴成彬と白南義の末っ子として生まれる。日本名では高木正雄(たかぎまさお)と名乗った[6]。大邱師範学校を卒業して教員を短期間務めた。やがて満洲国軍の軍官(将校)を志し、満洲国陸軍軍官学校(大日本帝国陸軍の陸軍士官学校に相当)予科に1939年4月に入校し、1944年4月に満洲国陸軍軍官学校本科を卒業した。大日本帝国陸軍の陸軍士官学校の留学生課程への短期間の派遣を経て、1944年9月に満洲国軍少尉に任官した。八路軍や対日参戦したソ連軍との戦闘に加わり、内モンゴル自治区で終戦を迎えた。 第二次世界大戦後、中国の北京に設置されていた大韓民国臨時政府(朝鮮系住民による独立組織)に加わり、朝鮮半島の南北分離時は南部の大韓民国を支持して国防警備隊の大尉となった。国防警備隊が韓国国軍に再編された後も従軍を続け、一時は南朝鮮労働党員だったことが発覚して軍法会議にかけられるが、転向して党内情報を提供したことやその能力の高さを評価した軍の将校による除名嘆願で軍籍剥奪に留まり、以後は軍の嘱託(文民)として勤務を続け、朝鮮戦争勃発により軍籍を回復する。 朝鮮戦争終結時には陸軍大佐にまで昇進、1959年には陸軍少将、第2軍副司令官の重職に就いた。一方、内戦を終えた韓国内では李承晩が行った大規模不正選挙が原因で四月革命が勃発し、第二共和国体制が成立するも、議会の混乱によって一向に復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化していた。これらの状態に対して1961年5月、軍の将官、将校、士官らの改革派を率いてクーデターを決行し、軍事政権(国家再建最高会議)を成立させた(5・16軍事クーデター)。形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党による事実上の独裁体制を形成し、第5代から第9代大韓民国大統領(在任、1963年 - 1979年)と大統領任期を5期に亘って務め、権威主義体制による開発独裁を推し進めた[7]。 独裁政権下では日本の佐藤栄作内閣総理大臣との間で日韓基本条約を批准して日韓両国の国交を正常化し、更にアメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領の要請を受けて1964年にベトナム戦争に韓国軍を派兵した。
概要