独裁政権下では日本の佐藤栄作内閣総理大臣との間で日韓基本条約を批准して日韓両国の国交を正常化し、更にアメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領の要請を受けて1964年にベトナム戦争に韓国軍を派兵した。日米両国の経済支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成した。大韓民国は1960年代から1970年代にかけての朴正煕執政下の高度経済成長により、1970年頃まで経済的に劣位であった同じ朝鮮民族の分断国家、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を経済的に追い越し、最貧国グループから脱した。
一方で統制的な軍事政権下では民主化などの運動は徹底して弾圧され、人権上問題のある拷問や政治犯の投獄なども行われた。対外政策においてはベトナム戦争に介入するなど一貫して親米政策を取ったが、米中国交正常化以後は独自核武装を推進した。しかし、そのため米国との関係が悪化し、カーター大統領の強い牽制を受けて失敗した。また日本との友好姿勢も国内の民族主義(左派ナショナリズム)から敵視される背景となった。政権後半には単独での核武装などの自主国防路線や、日本に滞在していた民主化活動家の金大中を諜報機関(KCIA)により拉致し国家主権を侵害する(金大中拉致事件)など強硬な政策を進めた。
1979年10月26日、大規模な民主化デモの鎮圧を命じた直後、側近である金載圭KCIA長官により、車智K大統領府警護室長共々暗殺された。享年61歳。
略歴
1917年11月14日 - 生誕。
1932年3月 - 亀尾公立普通学校卒業
1932年 - 大邱師範学校入学 。
1936年 - 最初の結婚。
1937年3月20日 - 大邱師範学校尋常科を70人中69位で卒業。
1939年4月 - 満洲国陸軍軍官学校予科に入校[8]。
1942年10月 - 満洲国陸軍軍官学校本科に入校[8]。
1944年4月 - 満洲国陸軍軍官学校本科を卒業し、大日本帝国陸軍の陸軍士官学校の留学生課程に短期間派遣された[8]。
1944年7月 - 満洲国軍少尉に任官し、大日本帝国陸軍の関東軍に配属された[8]。
1945年8月 - 満洲国軍中尉で終戦を迎える。
1946年9月 - 国防警備隊士官学校入学(2期)。
1946年12月14日 - 国防警備隊士官学校卒業。国防警備隊少尉に任官(軍番10166番)。第8連隊付。
1947年2月 - 38度線警備中隊第4警備隊長。
1947年7月21日 - 第8連隊作戦参謀代理。
1947年8月14日 - 第1連隊中隊長。
1947年9月27日 - 大韓民国陸軍大尉。警備士官学校生徒隊長。
1948年8月21日 - 大韓民国陸軍少佐。
1948年12月28日 - 陸軍本部戦闘情報課長。
1948年 - 麗水・順天事件発生後、南朝鮮労働党員であることが粛軍運動で発覚し、逮捕される。
1949年4月 - 軍法会議で執行免除の無期懲役、軍籍剥奪され、情報局嘱託となる。
1950年 - 朝鮮戦争勃発により、大韓民国陸軍少佐戦闘情報課長を復命。
1950年 - 陸英修と再婚。
1950年9月15日 - 大韓民国陸軍中佐。陸軍本部輸送作戦指揮官。
1950年10月25日 - 第9師団参謀長。
1951年4月15日 - 大韓民国陸軍大佐。
1951年5月25日 - 陸軍情報学校校長。
1951年12月10日 - 大韓民国陸軍本部作戦教育局長。
1953年2月16日 - 第2軍団砲兵司令官。
1953年5月9日 - 第3軍団砲兵司令官。
1953年11月25日 - 大韓民国陸軍准将。
1954年1月17日 - アメリカ陸軍砲兵学校留学。
1954年7月1日 - 第2軍団砲兵司令官。
1954年9月18日 - 教育総本部砲兵監兼砲兵学校校長。
1955年7月1日 - 第5師団長。
1957年3月20日 - 陸軍大学卒業。
1957年3月30日 - 第6軍団副軍団長。
1957年9月1日 - 第7師団長。
クーデターを指揮する朴正熙(左サングラス姿)(1961年5月18日)1958年3月1日 - 大韓民国陸軍少将。