羅城門以南は、平城京では下ツ道、平安京では鳥羽作道に接続された。当時十数名ほどであった公卿[10]を除いては大路に面して門を作ることが禁止されていたので[11]、朱雀大路に面しては築地塀が続いた。道の脇の排水溝と街路樹の清掃や維持管理は沿道住民の義務とされた[12]。もっとも、平安京遷都から20年後の時点で大路の管理が行き届かなくなっており[13]、また平安時代にはいると外交使節の入京は渤海使のみとなり、渤海の滅亡により迎えるべき外交使節が途絶した。延喜式では牛馬が放牧されたり盗賊のねぐらとなったりしている状況を踏まえてこれらの取り締まりを謳っている[14]。
しかし、朝廷の収税力減少、右京の衰退、管轄者の京職の形骸化に伴い荒廃が進んだ。鎌倉時代初期には朱雀大路を含む道路の農地化が横行していることが記されている[15]。戦国時代には防衛上の理由から左京とその北側のうちそれぞれごく一部が惣構を持つ囲郭都市の下京と上京になり、もとの朱雀大路は市街地から切り離されることとなった。その後、豊臣政権が惣構を解体して上京・下京を一体に囲む御土居を構築し、もとの朱雀大路の区域の多くも御土居内部西辺に取り込まれたが、朱雀大路が復活することはなく、同じ場所には南北に千本通が通じている。
平城京の朱雀大路も一旦その姿を消したが、現代の奈良市では平城宮跡歴史公園内の「朱雀門ひろば」として、復元された朱雀門の南方約250メートルほどにわたって朱雀大路が復元整備された[16][17]。
鎌倉の鶴岡八幡宮参道の若宮大路が朱雀大路に見立てて設けられたとする見方もある[18]。また、大宰府においては政庁地区から伸びる中央南北大路の事を平城京・平安京の例に倣い朱雀大路と呼ぶ事もある。
中国でも宋の時代に入ると条坊制に基づいた都は余り作られなくなり、朱雀大街も見られなくなった。
脚注^ 桃崎 p.24
^ 桃崎 p.79
^ 桃崎 pp.88 - 93
^ 桃崎 p.94
^ 網伸也『平安京造営と古代律令国家』塙書房、2011年、pp.31 - 32
^ 桃崎 p.76
^ 桃崎 pp.78 - 79
^ 桃崎 p.168
^ 桃崎 p.58、京都市埋蔵文化財研究所『つちの中の京都3』(2006年)からの引用
^ 桃崎 p.68
^ 桃崎 pp.63 - 64
^ 桃崎 pp.54 - 55
^ 桃崎 pp.57 - 59
^ 桃崎 pp.60 - 61
^ 桃崎 pp.189 - 190
^ ⇒平城宮跡歴史公園:オープン 展示、飲食施設にぎわう /奈良 毎日新聞(2018年3月25日)
^ 平城宮跡歴史公園 新たな観光拠点 読売新聞(2018年3月25日)
^ 片山伸也 ⇒近代別荘の普及に見る鎌倉の都市構造 日本女子大學紀要 家政學部 Vol.59 pp.89 - 96(2012年)
参考文献
桃崎有一郎『平安京はいらなかった 古代の夢を喰らう中世』歴史文化ライブラリー428(吉川弘文館・発行年:2016年)