朱棣
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明けて建文4年(1402年)1月に?沱河で再び官軍を撃破、途中の城には目もくれずに南下した。このときの逸話として朱棣は曲阜孔子の生誕地)と鄒県孟子の生誕地)では「木一本たりとも盗むことを禁じる」と命じている。

3月、宿州で平安率いる官軍と激突し勝利したが、4月には再度兵を整えた平安、討伐司令官徐福率いる官軍と蒙城付近で激突。燕王軍は陳文・王真と言った将軍を失い、燕王軍は飢えを凌ぐため付近の畑から野菜を盗るほど兵站に悩まされたと記されている。このとき燕王軍では、攻勢を続けると主張した朱棣に対して将軍たちが一時撤退を進言し、朱棣に賛成したのは朱能のみであったが、朱能の発言が通り戦線を維持することで決着した。この後数日間は朱棣も「甲冑を着けたまま起居した」とされ、士気の向上に努めていた。

しばらく持久戦の様相を呈していたが、官軍に補給物資が届いたとの報を受け朱棣は再び攻勢に出た。この時、朱棣は次男の朱高煦に別働隊を指揮させ、その働きにより勝利。官軍は1万人以上が戦死して徐福・平安らは霊璧へと撤退、燕王軍は官軍の物資を手にした。

続いて行われた霊璧の戦いでも官軍に壊滅的な打撃を与えた。この時、徐福は「三発の砲声を合図として燕王軍に総攻撃を仕掛ける」と通達していたが、偶然にも燕王軍から三発の砲弾が霊璧城に打ち込まれ、これを総攻撃の合図と誤解した官軍が開かない城壁に殺到、城内は大混乱となり、その機に朱棣が城を攻め落としてしまうと言う、戦史上珍しいほどの幸運による戦勝例が起きた。この時平安を捕虜として北平に護送している[注 4]

5月、燕王軍は祖先の墳墓がある泗州に到着。守将は一戦もせずに降伏し、朱棣は墓前に祭文を掲げて啼いたとする。その後朱棣は淮河のほとりで盛庸率いる官軍に勝利し、戦闘がないまま降伏した揚州城を制圧。ここで朱棣の従姉にあたる慶成郡主(中国語版)が朝廷からの和議の使者として朱棣の元を訪れたが、この和議を拒絶した。

6月に長江を渡河。盛庸の指揮する官軍の抵抗を受けつつもこれを撃破し、対岸の南京至近にある鎮江を戦わずに降伏させ、占拠した[注 5]

同月に南京を攻撃。この時、南京の金川門を守備していた李景隆は戦わずに門を開いて降伏した。金川門の変(中国語版)での降伏を聞いた建文帝は宮殿に火を放った[注 6]

この後、方孝孺・斉泰・黄子澄・鉄鉉は刑死[注 7]。最後まで抵抗した徐輝祖は、その姉が朱棣妃の徐氏(後の徐皇后)であることから命だけは許された。
独裁権の確立.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}永楽大典永楽大典の主な編纂者、解縉(中国語版)(かいしん)

建文4年(1402年)、靖難の変に勝利した朱棣は皇帝に即位した(永楽帝)。永楽帝は建文帝の存在を「革除(歴史から抹殺)」しようと試みた。まず建文の元号を抹消、この年を洪武35年とし、翌年(1403年)を永楽元年とした。そして建文帝に関する言動を皇帝直属の錦衣衛に監視させた。

同年には北平を都と定めて北京順天府と改名している。実際に移った(中国語版)のは永楽19年(1421年)であり、永楽4年(1406年)から改築を進めてきた紫禁城を完成させ、ここに移った。靖難の変は南北間の政治的対立や経済的格差を顕在化させた。こうした問題の解消に加え、洪武帝以来の課題であった「南北統一」「華夷一統」の理念の実現のためにも農耕地域と遊牧・狩猟地域の境界線上にある北京が新たな首都に選ばれたと考えられている[注 8][2]

また「東廠」と呼ばれる宦官の組織を作り、諜報活動を実施させている。かつて洪武帝が行った恐怖政治を永楽帝は自らの簒奪を隠蔽するために実施している。これにより、永楽年間に皇帝独裁体制が固まり、以後新皇帝が即位すると、先帝の治世に政治を壟断する寵臣が没落し処断されるのが常になった。

文化的には勅撰書である『永楽大典』『四書大全』『五経大全』『性理大全(漢文版)』『歴代名臣奏議(中国語版)』などを編纂させ、文淵閣(中国語版)に保存させた。これには儒学者が自らの簒奪や建文帝について議論するのを事前に封じる意図があったと言われる。
対外政策紫禁城

洪武帝が元末の混乱以来の民力の休養を国是とし、外征を控えて農本主義による政策を実施したのに対し、世界帝国を目指した永楽帝は積極的な外征を行い、対外進出を中心にした政策を実施した。永楽帝の治世の最たる象徴は積極的な対外政策にあった。領土拡大においては軍略家の本領を発揮して漢人の皇帝としては唯一モンゴル方面への親征(中国語版)を行い、5度にわたる出征でタタールオイラトを威圧した。また南方では陳朝大越滅亡後の安南に出兵して胡朝大虞を滅ぼし、交趾布政司(中国語版)による直接支配を実現、東北方面でも女真族の勢力圏であった黒竜江河口まで領土を拡大して奴児干郡司(中国語版)を設置、西方でもティムール没後のティムール帝国と国交を持ち、チベットの間接統治も実現させた。さらに朝鮮琉球日本からの朝貢を受け冊封し朝貢貿易(日本は所謂勘合貿易)を許可、また宦官鄭和をして7度にわたり大艦隊を南海方面に派遣し(1405年 - 1433年)、東南アジアから東アフリカ海岸に及ぶ30以上の国々に朝貢させ、明の威信をアジア中に及ぼした。

モンゴル族のタタール部とオイラト部は、たびたび明との国境を越えて侵入した。これに対し永楽帝は断固たる態度で臨み、最初は武将の丘福に10万の兵を与えて征討に向かわせたが、丘福が戦死すると永楽8年(1410年)に、51歳で皇帝としては異例となる北方親征を敢行、後に擒[注 9]と名づける[3]ケルレン河畔での大勝を皮切りに5度にわたって行いモンゴル族を駆逐し[4]、「五度沙漠に出で三たび慮庭をたがやす(五出三犂)」と称えられている。

建文2年(1400年)、安南を支配していた陳朝が胡季?に簒奪されて滅び(胡朝)、その子の胡漢蒼がさらに南方のチャンパ占城)を攻撃した。チャンパ王のインドラ・ヴァルマン6世が明に援軍を求めてきたため、永楽4年(1406年)に安南に遠征し(明胡戦争(英語版)、明・大虞戦争)、直轄領とした(第四次北属期[注 10]。この時の明軍は21万に及ぶ兵を動員したが、総司令官であった朱能の病没という、敗戦によらない手痛い損失が生じた。その後指揮官となった張輔(張玉の長男)は「安南は本来中国の土地」とする上表を提出し、これを受けた永楽帝による交趾布政使、都指揮使などの地方官が任命された。ただし永楽6年(1408年)に大規模な反乱が生じ、現地の明軍だけでは対応できなくなった結果、再び張輔が討伐軍を指揮する事態となっている。この鎮圧後も散発的に反乱は続発し、永楽12年(1414年)には張輔が現在のラオス付近まで軍を進めている。

チベットを従属させ、カルマパ活仏であるデシンシェクパ(英語版)を招き、洪武帝と孝慈高皇后の追善供養を執り行わせる一方、西域の情報を得た。デシンシェクパからの情報による西域方面統治政策は、その後の明の基本となる。この他に『勅修奴児干永寧寺碑記(中国語版)』によると現在のシベリアにも出兵し、苦夷(樺太)まで一時は支配し、奴児干都司を置いたとされる[注 11]

永楽帝は世界が明の権威を認めることを欲し、鄭和に命じ大船団を南海に派遣した。大航海は全7度行われ[注 12]、東アフリカ沿岸にまでに達した。鄭和の船団は明と交易することの利益を諸国に説いて回り、明に朝貢することを条件に諸国が交易にやって来るようになった。国境を接し、元の旧領支配を目指すティムール朝とも敵対したが、永楽3年(1405年)のティムール死後は和睦して友好関係を築き、永楽12年(1414年)または永楽13年(1415年)には鄭和がホルムズを訪れている。

当時倭寇問題などで対立していた日本とも和解し、永楽2年(1404年)に前将軍足利義満から永楽帝の即位を祝賀する使節を送られ、貿易を求めてきた[注 13]。永楽帝は当時猛威を振るっていた倭寇の取締りを求めると同時に、義満を「日本国王」に冊封し、朝貢貿易も許した[注 14]。永楽帝は義満を評価しており、その死の翌年に弔問使を日本に遣わし「恭献王」のを贈っている[注 15]。この関係は義満の後継者である足利義持によって永楽9年(1411年)に明の使者が追い返されるまで続いた。


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