朱全忠
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賢婦人と称された正妻(張氏)がこの頃死去すると、太祖(朱晃)の好色はさらに激しくなり、各地に封じていた諸子の正妻を都に留めて、自分の近くに侍らせ通じるようになった[11]。特に仮子である博王朱友文の妻の王氏は美人で太祖(朱晃)の寵愛も深かった[11]。その淫乱が過ぎたためか、晩年の太祖(朱晃)は病気がちとなった[11]
最期

乾化2年(912年)、病の重くなった太祖(朱晃)は王氏との関係から仮子の博王朱友文の立太子を図る[11]。しかし実子の郢王朱友珪の妻の張氏がこれを知って朱友珪に告げた[11]

朱友珪は日頃から素行が悪いために父から冷遇されており、朱友文への偏愛にも不満を抱いていた[11]。父の太祖(朱晃)は後継体制を確実なものにしようとして、息子の朱友珪を?州刺史に左遷し、自分から遠ざけた[11]

当時太祖は左遷した人物の大半を次々と殺害しており、朱友珪は将来、自分の身に何かの不安を覚えた[12]

こうして、朱友珪は、太祖の臣下に対する暴虐に不満を抱いていた左龍虎軍(近衛軍)と結託し、手勢500名を率いて宮中に押し入った[12]

その時、太祖(朱晃)は看病を受けていたが、既に全員が逃走してしまって事情がわからず、「反乱を起こしたのは誰か?」と訊き、その場に朱友珪が出てきた。そして、太祖(朱晃)は全ての事情がわかり、目の前の息子に対して「どうして己の父を害するような輩を生かしておいたのか、私は早くお前を殺すべきだった。」と述べた[12]

こうして太祖(朱晃)は息子の朱友珪に腹を刺されて殺害され、帝位を奪われた[12]。享年61。
宗室
后妃

賢妃張氏(
元貞皇后

武威郡君石氏、昭儀陳氏、昭容李氏、美人段氏、国夫人劉氏(後の敬翔の妻)

兄弟

広王
朱全c

朗王 朱存

従子
朱全cの子

衡王
朱友諒

恵王 朱友能

邵王 朱友誨

朱存の子

安王
朱友寧

密王 朱友倫

名の表記は『新唐書』による。
男子

?王
朱友裕

郢王 朱友珪

末帝 朱友貞

福王 朱友璋

賀王 朱友雍

建王 朱友徽

康王 朱友敬

女子

安陽公主(羅紹威の子の羅延規にとついだ)

長楽公主(趙?の子の趙巌
にとついだ)

金華公主(羅紹威の子の羅延規の継室)

普寧公主(王鎔の子の王昭祚にとついだ)

真寧公主

仮子

博王
朱友文(康勤)

冀王 朱友謙(朱簡→朱友謙→李継麟)

朱友恭(李彦威)

朱友譲(李七郎)

朱漢賓 - 軍校の朱元礼の子

脚注^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 243.
^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 244.
^ 駒田 & 常石 1997, p. 245.
^ a b c d 駒田 & 常石 1997, p. 246.
^ a b c 駒田 & 常石 1997, p. 247.
^ 司馬光『資治通鑑』巻257「罕之奔澤州,求救於李克用。」「張全義嬰城自守,城中食盡,求救於朱全忠,以妻子為質。」
^ 司馬光『資治通鑑』巻257「朱全忠遣其將丁會・葛從周・牛存節將兵數萬救河陽。」「全忠表丁會為河陽留後,復以張全義為河南尹。」
^ 司馬光『資治通鑑』巻257「李克用巡?州,以供具不厚,怒昭義節度使李克脩,詬而笞之。克脩慚憤成疾,三月,薨。」「素樂李克脩之簡儉,且死非其罪,?人憐之,由是將士離心。初,?人叛孟氏,牙將安居受等召河東兵以取?州。」「衆推居受為留後,附於朱全忠。」
^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 248.


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