本能寺の変
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^ 歴史評論家・音楽評論家の香原斗志は、「晴豊公記」「言経卿記」などの史料から、この四国政策の失敗が本能寺の変の原因だと見ており、実は本能寺の変が発生した直後から主な公家や織田家の家臣たちが、原因は信長の四国政策の変更だと見ていたと言う[43]
^ 「古郷に残す妻や子に名残り惜しまれ、恩愛涙尽きぬは帰らぬ旅の首途と、後にや思ひ合わすらん、また夜をこめて進発すとある」[99]
^ 『信長公記』には中国出陣を命じられた将に筒井順慶の名はないが、『細川忠興軍功記』では明智・細川忠興・筒井順慶の3名に出陣が命じられたとある[101]
^ 天正8年の丹後入国以後、藤孝は、出陣等には忠興や家臣松井康之らに名代を任せて、国を出なかった。
^ 池田4,000、高山2,000、中川2,500[103]。長岡・塩川らは不明。
^ 秀吉15,000、羽柴秀勝5,000、宇喜多秀家(忠家)10,000[105]
^ 清水・末近の城兵5,000(農民500含む)、小早川隆景・吉川元春の援軍30,000。毛利輝元も後詰に出陣したが兵数の記載なく内訳は不明[105]
^ a b 一般に、丹羽長秀は四国遠征の指揮官の一人と見なされているが、『信長公記』によれば長秀に出陣の命令は与えられておらず、家康の饗応役も解かれていなかった。本能寺の変が起きなかった場合に実際に参加することになったのかどうかは不明。蜂屋頼隆は長秀の女婿であるだけでなく、馬揃えでも二番隊を指揮するなど大将格であったという説もある。
^ 丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、菅屋長頼の4名[110]
^ 松倉城主。諱は複数伝わる。
^ 小幡は3月25日、真田は3月22日に投降し安堵されている[118]
^ 『信長公記』原文より信長公此等趣被及聞食今度間近く寄合候事興天所候被成御動座中国之歴々討果九州まで一篇に可被仰付之氏B? 史籍集覧[123]
^ 備中に向かった時期は不明。
^ 『家忠日記』によると、(6月)3日に松平家忠へ家康と同行していた酒井忠次から京都より手紙が届き、家康帰国後に西国へ出陣するとの報と、その際に諸国では指物に大旗の使用を止め、撓を用いていることを伝えられている[125]駒澤大学の「『家忠日記』の記事紹介と解説 A本能寺の変」によると、これは「毛利攻めを行っていた秀吉の援軍のための出陣と思われます」と説明されているが[126]谷口克広は、京都と書かれているが、酒井は家康一行の一員として伊賀越えの途中にあり、河内で変をしるやいなや三河に飛脚を飛ばしたのだろうが、この飛脚は西国出陣準備の命令ばかりで、変については秘密をまもらせたようで、まもなく三河にも変報はつたわるが、家忠が後半に書いたのは別ルートからの情報で、3日中に第一報と第二報を得ていたとしている[127]
^ 京都の愛宕山に祀られる天狗のこと。愛宕太郎坊天狗。
^ 信長はかつては妙覚寺を寄宿先としていたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し[128]、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用するようになった[131]
^ 改暦#天正10年の例を参照。
^ 現在の亀岡市篠町野条[138]
^ 『信長公記』のほんどの版では溝尾勝兵衛の名前がここでは出てこない。4名となっている。
^西京区大枝沓掛町。
^ これは通説では「家康を討つため」と本城が思っていたと解釈されていたが、白峰旬は家康の援軍となるためという解釈であるとしている[145]
^ 『当代記』によれば奥州出身の馬術家と云う[3]
^ 『信長公記』を書いた太田牛一は信長に近侍した御弓衆であった。諸版本の『池田家本「信長記」』には、「信長の最後の直前まで傍らにいた本能寺から避難した女衆に取材した」と、他版とは異なる記述ある。
^ 信長の最後は、『信長公記』では「御腹めされ」[152]と切腹したとし、『惟任退治記』など他の多くこれに従って切腹を意味する表現が使われている。他方『当代記』では「焼死玉ふか」[157]と焼死かもしれないと言葉を濁している。
^ 金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本。
^ 東京大史料編纂所教授(日本中世史)。
^ 『惟任謀反記』には十文字鎌鑓を用いたという記述があり、あるいはそれを描写したものか。
^ 現代語訳にすると、「上様(つまり信長)と殿様(つまり信忠)は無事に(変を)切り抜けて助かり、膳所ヶ崎(大津市)に退いた」という内容。
^ 宗安は西山本門寺の18世日順上人の父親。宗安の父胤重と兄孫八郎清安は、本能寺で亡くなり、その父兄の首と共に信長の首を運び出して、寺で供養したという内容。
^ この日まさに明智光秀は安土城におり、朝廷の使者として来訪した吉田兼見と会見していた。
^ 信忠の死去の地について「二条城」と称されることが多いが、今日では足利義昭の居城として築かれた二条御所ではなく、義昭が追放された後に二条晴良から信長に提供された旧押小路烏丸殿のことだと考えられている。
^ 時間については『イエズス会日本年報』
^ 『明智軍記』では、鎌田は井戸にしばらく身を隠して脱出したと云う。
^ 二条御新造で戦死とする史料もある。
^ 『三河物語』では籠城に加われずに追腹をしたとある[154]
^ 安土城などの大工棟梁。
^ 原典はフロイスが送った書簡『1582年のイエズス会日本年報追加』[197]による[198]
^ 本能寺の変に触れるドラマの中では、弥助が信長に殉じて討ち死にするという描かれ方をされることもある。
^ 「国替え説」は、唯一史料として変19日前の5月14日付けの丹波国人、土豪への軍役を課した神戸信孝の軍令書が存在し、この人見家文書の花押の真偽を巡る学問的な論議となっている。しかし、簗田広正や滝川一益が同様の敵地への領地替えが行われた際は、彼らの旧領はしばらく安堵されていたので、これは新領獲得まで旧領安堵するという当時の作法ではという説がある[210]
^ a b 京都大学付属図書館所蔵の愛宕百韻写本では「下なる」とされている。
^ 「まつ山」は「夏山」ともされる。
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