本能寺の変
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信長の嫡男で織田家当主の信忠も襲われ、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、やはり建物に火を放って自害した[13]。信長と信忠の死によって織田政権は瓦解するが、光秀もまた6月13日山崎の戦い羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れて命を落とした。事件は秀吉が台頭して豊臣政権を構築する契機となり、戦国乱世は終焉に向かった。

光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、多種多様な説がある(各説については変の要因を参照)
背景

天正10年(1582年3月11日武田勝頼信勝親子を天目山に追い詰めて自害[14][注釈 5]させた織田信長は、3月27日、2日に名城・高遠城を攻略した信忠に、褒美と共に「天下支配の権も譲ろう」[15][注釈 6]との言葉も贈って褒め称えた。信長は甲府より返礼に来た信忠を諏訪に残して軍勢を現地解散すると、僅かな供廻りだけをつれて甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら悠々と帰国の途に就いた。

4月3日には新府城の焼け跡を見物。かつての敵、信玄の居館・躑躅ヶ崎館跡の上に建てられた仮御殿にしばらく滞在し、4月10日に甲府を出立した[16]。長年の宿敵を倒し、立派な後継者[注釈 7]の目途もついて、信長にとって大変満足な凱旋となった。太平記英勇伝壹:織田上総介信長(落合芳幾作)

天下を展望すると、東北地方においては、伊達氏[注釈 8]最上氏[20]蘆名氏[21]といった主な大名が信長に恭順する姿勢を見せていた。関東では、後北条氏がすでに天正8年(1580年)には同盟の傘下に入っていて[注釈 9]佐竹氏[24]とも以前より外交関係があったので、東国で表だって信長に逆らうのは北陸上杉氏を残すのみとなった[情勢 1]

北条氏政氏直父子は共同で甲州へ出陣する約束をしていたが、戸倉城を攻略した後は何ら貢献できなかったので、3月21日に酒・白鳥徳利を、26日には諏訪に米俵千俵を献じ、4月2日には雉500羽、4日には馬13頭と鷹3羽と、短期間で立て続けに献上品を送って誼を厚くしようとした。しかし、この時の馬と鷹はどれも信長が気に入らずに返却されている[16]。他方で、信長は長年の同盟者である徳川家康には駿河一国を贈り、これ対する返礼で、家康は領国を通過する信長一行を万全の配慮で接待して、下士に至るまで手厚くもてなしたので、信長を大いに感心させた[25]。これら信長の同盟者はもはや次の標的とされるよりも、その威に服して従属するという姿勢を鮮明にしていた[26]。「甲州征伐」および「清洲同盟」も参照

西に目を転じると、中国地方では、毛利輝元を惣領とする毛利氏との争いが続き[情勢 2]四国でも長宗我部元親が信長の指図を拒否したことから長宗我部氏と交戦状態に入った[27]詳細は後述)が、九州においては大友氏と信長は友好関係にあり、島津氏とも外交が持たれていて、前年6月には准三宮近衛前久[注釈 10]を仲介者として両氏を和睦させたことで、島津義久より貢物を受けている[28][注釈 11]

信長は天正9年(1581年)8月13日、「信長自ら出陣し、東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意である」[29]と、その意向を繰り返し表明していたが、上月城での攻防[30]の際は重臣が反対し、鳥取城攻めの際には出陣の機会がなかった。その間に伊賀平定を終えて(高野山を除く)京都を中心とした畿内全域を完全に掌握したことから、次こそ第3次信長包囲網[注釈 12]を打倒し、西国最大の大名である毛利氏を討つという意気込みを持っていた[情勢 2]。詳細は「中国攻め」を参照

他方で信長は、天正6年(1578年)4月9日に右大臣右近衛大将の官位を辞して[31]以来、無官・散位のままであった。正親町天皇とは誠仁親王への譲位を巡って意見を異にし、天正9年3月に信長は譲位を条件として左大臣の受諾を一旦は了承したが、天皇が金神を理由に譲位を中止した[32]ことで、信長の任官の話もそのまま宙に浮いていたからである。そこで朝廷は、甲州征伐の戦勝を機に祝賀の勅使として勧修寺晴豊(誠仁親王の義兄)を下し、晴豊は信長が凱旋した2日後の天正10年4月23日に安土に到着した。『晴豊公記』によれば、4月25日に信長を太政大臣関白征夷大将軍かに推挙するという、いわゆる「三職推任」を打診し、5月4日には誠仁親王の親書を添えた2度目の勅使が訪問したと云う。2度の勅使に困惑した信長が、森成利(蘭丸)を晴豊のもとに遣わせて朝廷の意向を伺わせると、「信長を将軍に推任したいという勅使だ」[33]と晴豊は答えた。しかし信長は、6日、7日と勅使を饗応したが、この件について返答をしなかった[34]。そのうちに、5月17日備中羽柴秀吉より、毛利輝元が間もなく出陣する旨が知らされるとともに、信長への出馬要請が届いた。これを受けて、信長は出陣を決意し、三職推任の問題はうやむやのまま、本能寺で受難することになった。(続き)詳細は「三職推任問題」を参照明智光秀像(岸和田市本徳寺所蔵)
明智光秀の立場
四国・長宗我部問題

これより前、土佐統一を目指していた長宗我部元親は、信長に砂糖などを献上[35]して所領を安堵された。信長は元親の嫡男弥三郎烏帽子親になって信の字の偏諱を与えるなど[36]友誼を厚くし[注釈 13]、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」[35]と書かれた朱印状を出していた。信長も当時は阿波讃岐河内に勢力を張る三好一党伊予河野氏と結ぶ毛利氏と対峙しており、敵の背後を脅かす目的で長宗我部氏の伸長を促したのである[37]


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