宮津本荘子爵家の2代子爵本荘宗義は貴族院の子爵議員に当選して務めている。4代子爵本荘宗正の代に本荘子爵家の住居は神奈川県横浜市鶴見町にあった[15]。 下記の系図の信憑性については判断を留保(本庄氏の系図が複数存在するため、いまだに諸説ある)。斜体は養子児玉惟行 ┃児玉弘行 ┃児玉家行 ┃庄家広 ┃庄家長 ┃庄頼家(一ノ谷の戦いで戦死。家督を継ぐべき直系が絶えた事で、庄家次が養子に迎えられ、家督を継ぐ)本庄時家(結果的に家次の弟、時家が児玉党本宗家を継ぐ形となる) ┃ ?(山内上杉家家臣、実忠の代から後北条家家臣) ┃本庄信明(宮内少輔) ┃本庄為明 ┃本庄将明 ┃本庄実明 ┃本庄実忠(宮内少輔) ┃本庄近朝(隼人正) (高富本庄家、松平本庄家) ┃本庄時家 ┃家房 ┃家信 桓武平氏秩父氏の一族。本庄城(現在の村上城、新潟県村上市)に本拠を置き、越後上杉氏、長尾氏に従った。本庄氏は揚北衆の一氏であり、秩父氏の流れを汲み色部氏とともに越後秩父氏を形成した。戦国時代初期においては長尾氏と対立するが、長尾景虎(上杉謙信)の代においては長尾氏(上杉氏)に従う。戦国時代後期から安土桃山時代においては上杉氏の援助の元、本庄繁長は出羽(現在の山形県庄内地方)に進出し最上氏とも争った。 上杉氏が陸奥会津に転封されるとこれに従い、慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦でも功績を挙げた。上杉氏の120万石から30万石への減封後も、本庄氏は重臣として福島城(福島県福島市)城代を務め、寛文4年(1664年)に減封で上杉氏が15万石となり福島を失った後は、鮎貝(山形県白鷹町)に置かれた鮎貝城の城代(のち御役屋(陣屋)の役屋将に改称)[16]に代々任ぜられた。福島での菩提寺は長楽寺、鮎貝は常安寺
系図
系譜未分類
本庄長英:本庄時家の最も末裔とされるため、時家系本庄氏に当たる。系図によっては、信明の代わりに長英の名が載っている。
本庄藤三郎:本庄実忠の一門とされるが、時家系かは不明。
学術的な考察からすれば、本庄宗正の一族も、本来は系譜が未分類の一族である。
秩父党系本庄氏
一族
本庄長員
本庄房長
本庄時長
小川長資
本庄房長
本庄繁長