本庄宿
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本庄宿の総鎮守は、現在の千代田3丁目2番3号(宮本町)に鎮座する金鑚神社である。本庄氏滅亡後、近世になって何度か移転した末、現在地に至る(小笠原政信の方も参照)。『金鑚神社略記』の由緒によると、本庄の地に金鑚神社(分社)が建立したのは欽明天皇2年(541年・6世紀中頃)とされる。中世では東本庄の地にあり、代々本庄氏の氏神として祀られていたが、本庄宮内少輔実忠の代になり、本庄城の築城にともない移転した。本殿は18世紀初めに建てられ、当時は金鑚明神の名で親しまれたとされる。

18世紀から19世紀にかけての児玉郡周辺で普及した地方(ローカル)剣術真之真石川流と言う流派があり、柳生新陰流の末流とされる剣術である。この石川流の4代目小林庄松は本庄宿を拠点として周辺地域に広めていった(当流より古くから奥山念流も地元では普及していた)。

皇女和宮親子内親王は田村本陣の方を通った。

後の新撰組局長近藤勇が、浪士組の一員として京都に向かう際、芹沢鴨の宿割りを忘れ、怒った芹沢が本庄宿の街道上で夜通し篝火を焚いたというエピソードがある[注釈 3]

明治時代、本庄へ首都を移そうと発案した人物がいる。佐賀藩士であり、近代海軍創設や日本赤十字社を創立した佐野常民(明治35年没)である。彼は『遷都意見書』を提出し、外国船の攻撃を受けない地域で、水害の恐れがなく、水運が良く、高い山がなく、気候が温暖で、飲料水が確保できる風土を条件とし、その条件を満たした地域として具体的に本庄をあげた。ただし、この意見書は草案で終わったと考えられている。この地候補本庄論の内容が書かれた資料は、長い間、忘れられていたが、慶應義塾大学教授の手塚豊によって、昭和36年(1961年)に発見されることとなる。

最寄り駅

東日本旅客鉄道(JR東日本)高崎線 本庄駅

史跡・みどころ

安養院:東本庄館初代館主である本庄宮内少輔信明によって建立した寺院。

田村本陣門:現在の本庄市立本庄歴史民俗資料館の前に設置されている。本庄市指定有形文化財。本庄市中央1-2-3。

天明の飢饉蔵:戸谷半兵衛天明の大飢饉の時に庶民生活の救済処置として建てさせた土蔵。本庄市千代田1-4。

円心寺の山門:天明年間頃に建立したと伝えられ、当時の建築方式がうかがえる山門。本庄市本庄3-3-2。

本庄市立本庄歴史民俗資料館(旧本庄警察署):明治16年(1883年)に本庄警察署として建てられた擬洋風建築形式の建物であり、宿内では初めての本格的な洋風建築物であった(現在の美里町の大工によって建てられた)。昭和10年(1935年)まで警察署として機能していた。1980年から歴史民俗資料館として活動(見学日は火曜から土曜日まで。無料)。明治期の現存する洋風建築物としては県内でも最古級のものであり、県の有形文化財指定の建築物である。本庄市中央1-2-3。

(旧)諸井家住宅:本庄時代の東諸井家の住宅。明治12、3年(1880年)頃に建てられたと考えられる(明治10年頃に本庄宿で大火があり、仲町のほとんどが焼失したため)。擬洋風建築形式だが、洋風より和風が濃い。10代目東諸井家当主諸井泉衛から3代にわたり、83年間、東諸井家は郵便局長として活動していた。埼玉県指定有形文化財。本庄市中央1-8-1。

仲町郵便局(旧本庄郵便局):東諸井家11代目当主諸井恒平が昭和9年(1934年)頃に諸井家住宅付近に建てた。国の登録有形文化財。本庄市中央1-8-2。

ローヤル洋菓子店(旧本庄商業銀行煉瓦倉庫):建立は明治27年(1894年)頃。赤レンガ作りが特徴である明治期の建築物で、保存状態がよく、国の登録有形文化財。洋菓子店として活動を始めたのは1977年以降とされる。本庄市銀座1-5-16。

隣の宿
中山道
深谷宿 - 本庄宿 - 新町宿
脚注[脚注の使い方]

注釈^ 古代から近世の初めまで、本庄北部の村々は、厳密には上州の国土だった地域もあり、遵って、本庄を武州と上州の国境沿いとするのは誤りではない。古文献にも本庄を上州と誤解している記述があり、その名残である。詳細は本庄領を参照。
^ 天保14年(1843年)の『中山道宿村大慨帳』によれば、本庄宿の宿内家数は1212軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒で宿内人口は4554人であり、この人口は中山道の宿村内では最大であった。
^ 『新撰組始末記』に記述されている話だが、現在、調査の結果、このような伝承は、本庄在地には一つも残されていない(なお、調査をしたのは『本庄市史』編纂者である)。記述通りに家一軒分の大きさの炎であるのなら、大騒ぎになって、在地の記録に残るはずである[7]。加えて、本庄市関連の書物では、全く取り上げられていないため、このエピソードは本庄在地ではあまり知られていない。

出典^ 『みて学ぶ埼玉の歴史』 みて学ぶ埼玉の歴史編集委員会編 山川出版社 2002年 p.084
^ 埼玉新聞社『埼玉大百科事典』 〈4〉とち-ま、埼玉新聞社、1975年、423頁。ASIN B000J9ECRE。 
^ 平凡社地方資料センター 編『日本歴史地名大系 11 埼玉県の地名』平凡社、1993年、742頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-582-49011-5。 
^ a b c 島崎(1954)、302頁。
^ 島崎(1954)、303頁。
^ 島崎(1954)、304頁。
^ 山本邦夫 『埼玉武芸帳 江戸から明治へ』(初版) さきたま出版会、1981年、222頁。

参考文献

島崎隆夫、「利根川筋河岸場紛争 -本庄宿外港としての一本木河岸および山王堂河岸-」『三田學雑誌』第四十七巻第三號、1954年、慶應義塾経済学会、301-312頁。

『本庄市史』 1976年

『本庄市立歴史民俗資料館
紀要』 1号から3号

『ビジュアルヒストリー 本庄歴史缶』 1997年

『武州本庄宿ふるさと人物史1』 1989年

『本庄人物事典』 2003年

『武蔵国児玉郡誌』 シリーズ 1927年

『児玉記考』(前編・後編) 初版 明治33年、34年

『埼玉県本庄市宮本町自治会記念誌 みやもと』 2004年

関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、本庄宿に関連するカテゴリがあります。

本庄城

本庄領

金鑚神社

諸井貫一

竹越与三郎










中山道


江戸日本橋

板橋



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