本居宣長
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注釈^ 真淵との関係では「後によき考への出できたらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそ」と言い、師の教えを仰ぎながらも良いと適ったことは遠慮なく主張したという。
^ 組織を掌握する必要性から書き起こした『授業門人姓名録』には、宣長自筆本に45名、他筆本には489名が記載されている。
^ 父は小津三四右衛門定利[9]。兄の宗五郎定治は養子[10]。宣長は実子としては長男だった。
^ 江戸店にて病死、享年46歳[9]
^ 商売見習いのためであったと考えられる[12]
^ 江戸神田紺屋町宅にて没、享年40歳[10]
^ 『万葉集』に出てくる枕詞について詳細な解釈、精密な考察を施した書[15]
^ この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。
^ 寛政4年(1792年)に五人扶持
^ 伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。
^ 天文学的な、0時(当時の表現で「九つ(ここのつ)」)を日付の境とする考え方は、まだ一般的には普及しておらず、日の出を境とする意識が(当時のインテリである宣長にはともかく、残される他の者には)多かったということだろうが、そういったことまで詳細に述べている[23]
^ 兼題と当座を手向けるもので、明治36年(1903年)まで続いたとされる[25]。なお、春庭没後からは父子の悼前会として開催された[25]
^ 昭和26年(1951年12月16日の午後10時30頃、第二小学校の講堂付近より出火して700戸余が類焼した「昭和の松阪大火」と区別される。
^ 同年には静岡県浜松市で「賀茂真淵記念館」が開館しており、昭和60年(1985年)に本居宣長記念館と友好提携を結んだ[36]
^ 前身として昭和61年(1986年)から開講していた「月例懇話会」がある[36]
^ 宣長にとってこの歌は自身の心とも言える特別なものだったらしく、自選歌集『鈴屋集』には載せず、人から乞われた時のみ染筆している[41]。しかし、近代において新渡戸稲造が『武士道』で引用して武士道と結びつけて以降[42]たばこの銘柄(「敷島」「大和」「朝日」「山櫻」)に選ばれたほか、日本文学報国会撰「愛国百人一首」にも選ばれており、神風特攻隊の諸部隊の名称にも使用されるなど、軍国主義イデオロギーとして利用された[43]
^ 儒教を体系化した孔子その人には好意的であり、「聖人と人はいへども聖人のたぐひならめや孔子はよき人」という歌を詠んでいる[44]
^ 一方で、徂徠の学問の方法論である古文辞学からは、堀景山を介して多大な影響を受けていることも指摘されている[45]
^ 宣長は明和2年(1765年)に、「神典解釈が儒意を離れていない」と指摘した長文の漢文書簡を谷川士清に差し出している[46]。これに対して士清は、学風こそ譲らなかったが、宣長の優れた学才を認め、これを機に互いの著述や原稿を見せ合って活発に議論したほか、互いの蔵書を貸借するなど、書簡を通して交流を深めた[47]。なお、宣長は京都遊学中に、士清の『日本書紀通証』の諸説を抄録しているほか[46]、同書巻1の附録「和語通音」を写し取っている[48]
^ 実際、宣長は『玉鉾百首」で「東照るかみのみことの安国としづめましける御代はよろづ代」という歌を詠み、徳川幕藩体制を賞賛している。
^ 『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している[53]

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