本居宣長
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帰郷

宝暦7年(1757年)、宣長は京都から松坂に帰った[14]。その後は自宅で医師を開業するかたわら『源氏物語』などの講義や『日本書紀』などの研究に励んだ。この年に刊行された賀茂真淵の『冠辞考』[注 7]に触発され、国学の研究に本腰を入れることになる。
松阪の一夜賀茂真淵『冠辞考』を読んで深い感銘を受けた宣長は、一夜限りの出会いを経て真淵に弟子入りした[8][16]。なお、真淵は宣長以外にも、荒木田久老加藤千蔭楫取魚彦加藤美樹村田春海といった優秀な門人を数多く輩出している[17]

宝暦13年(1763年2月3日春庭が生まれる[18]5月25日伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し(「松阪の一夜」)、『古事記』の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、宣長は『古事記』の本格的な研究に進む[18]。この真淵との出会いは、宣長の随筆玉勝間[19]に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている[注 8]。その後、宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。

宣長は、一時は紀伊藩に仕えた[注 9]が、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に天明年間(1781年 - 1789年)の末頃から増加する。天明8年(1788年)末までの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた[注 10]
晩年.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}本居宣長の墓(国指定史跡)妙楽寺の奥津墓樹敬寺の墓妙楽寺のは「個人の墓」で、樹敬寺のは「本居家の家長としての墓」であり、宣長自身に用事がある人は妙楽寺を参拝する[20]

60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)から散文集『玉勝間』を書き始め[21]、その中で自らの学問・思想・信念について述べているほか、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。

寛政10年(1797年)に『古事記伝』を完成させた[22]。起稿して34年後のことである。

死に臨んでは遺言として、相続その他の一般的な内容のほか、命日の定め方[注 11]、供養、墓の設計までにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」を残した[24]。これについては、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}やまとごころにおける死生観として以前に述べていることといささか隔たりがあるとして、「謎」であるとする評論もある[要出典]。

享和元年(1801年)没。71歳。山室町高峰の妙楽寺に葬られた。
没後

享和2年(1802年5月15日大平が正式に本居家を相続し、春庭は大平方厄介となる[25]。同年に一周忌法要が執り行われ、「遺言書」の指示により「鈴屋影前会[注 12]」が開催される[25]

明治26年(1893年3月29日の午後7時頃、松阪魚町2丁目から出火し、家屋1318戸、神社5社、寺院6院、官公庁4カ所が焼失した(明治の松阪大火[注 13])。本居家のある魚町1丁目は難を逃れたが、これにより本居清造は家と史料を後世に残すことを決意したという[26]

明治34年(1901年)に没後100年を迎える。11月4日から同月6日まで「本居宣長翁百年祭」が町を挙げて開かれた[27]。本居宣長旧宅(国指定史跡)外観内部

明治38年(1905年)に従三位が追贈される[28]。これにより旧宅保存の気運が高まり、明治39年(1906年)に設立された「鈴屋遺蹟保存会」の手によって、旧宅は明治42年(1909年)に松坂城二の丸跡地に移築され、宣長当時の姿に復元された[29]。昭和28年(1953年)、本居宣長旧宅と移築前の魚町の跡地が国の特別史跡に指定された[30]。本居宣長ノ宮入口拝殿

山室村の本居家の墓から本居宣長の霊魂を殿町の森に運び神仏の聖地が移転した。大正4年(1915年)に学問の神様として「本居神社」が遷座した。平成7年(1995年)に社号を「本居宣長ノ宮」と改称した[31]。その墓は昭和34年(1959年)に松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山へ移された。生前の宣長が好んだ場所とされる[20]。さらに平成11年(1999年)には遺言の設計に沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。本居宣長記念館鈴屋学会の事務局が置かれている[32]

昭和45年(1970年)に宣長の業績の顕彰を目的として、宣長の旧蔵書や自筆本などを保存・公開する施設「本居宣長記念館」が開館した[33]。開館した日は宣長の命日にあたる[34]。記念館には春庭の子孫の家に伝わった資料のほかに、大平の子孫の家に伝わった資料などが所蔵されており、うち467種1,949点が国の重要文化財、20種31点が三重県の有形文化財に指定されている[35]

昭和59年(1984年)に広く国学の研究を進展させる目的で、宣長の全体像を学問の軸とする「鈴屋学会」が発会した[36][注 14]学会の名称は宣長の家号「鈴屋」に由来しており、学問的な関心のある人ならば誰でも参加して、宣長の顕彰を含めて宣長と関係のある“松阪”を重視することにしているため、松阪市も積極的に協力することになっており、年1回の研究大会も松阪市で開催するほか、会報を発行して研究者の情報交換を行っている[37]


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