本多猪四郎
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

さらに、森の誘いにより卒業目前の1933年(昭和8年)8月にPCL東宝の前身)に入社し[出典 9]、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1934年(昭和9年)に大学を卒業[要出典]。山本嘉次郎成瀬巳喜男の助監督につく[出典 10]。同期で山本門下の黒澤明谷口千吉は親友である[11][10]1939年(昭和14年)3月にはスクリプターの山崎きみ(本多きみ)と結婚[9][14]。入社後には3度徴兵された。

特に最初に入営した歩兵第1連隊では将校が二・二六事件を起こしたことから、事件後の部隊が満洲に送られてしまい[9]、通常2年で済む現役が長引いた。復帰後は軍に再召集され、日中戦争に従軍。終戦は中国で迎え[9][14]、半年間捕虜となっていた[17][9]。この間、本多の兄弟はすべて他界していた。1946年(昭和21年)、中国から引き上げてきた本多は汽車で帰郷中に原爆で壊滅した広島を目の当たりにし、強い衝撃を受けた[19]

8年間も軍にいたため[出典 11]、山本門下の3人のうち最も古参だったにもかかわらず、監督昇進は黒澤(1943年姿三四郎』)、谷口(1947年銀嶺の果て』)に先を越される形となっていた[20][注釈 1]1949年(昭和24年)、短編ドキュメンタリー『日本産業地理大系第一篇 国立公園伊勢志摩』で監督デビュー[21][9][注釈 2]。本作は日本で初めて、本格的な水中撮影が行われた[22]1951年(昭和26年)、本多が40歳の時にようやく『青い真珠』で劇映画を初監督する[出典 12]

太平洋の鷲』以降円谷英二とのコンビで多くの特撮映画を監督した[出典 13]1954年(昭和29年)の『ゴジラ』は全米で大ヒットを記録したため、一躍世界に名を知られる映画監督となる[出典 14]。本多自身も『ゴジラ』を監督していなければ全く違う人生を歩んでいただろうとしている[17]。なお、『ゴジラ』では真夏の海上ロケを敢行したが、巡視船の上で上半身裸となって撮影に挑んだため、日焼けしすぎて背中に水ぶくれが出来てしまい、後年もその名残の染みだらけであったという[25]

1957年(昭和32年)の『地球防衛軍』はMGM配給、1958年(昭和33年)の『美女と液体人間』、1959年(昭和34年)の『宇宙大戦争』、1961年(昭和36年)の『モスラ』はコロムビア映画の配給、1962年(昭和37年)の『キングコング対ゴジラ』と1967年(昭和42年)の『キングコングの逆襲』はユニバーサル映画配給、1965年(昭和40年)の『怪獣大戦争』と1966年(昭和41年)の『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』はユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ配給で全米公開されるなど、担当した作品のほとんどが海外で公開された。なお、『キングコング対ゴジラ』では撮影中に斜面を30メートルも滑落してしまったが、負傷した腕を吊りながら撮影を続行したという。

しかしながら、プロデューサーの田中友幸からの評価は低く、1962年の『妖星ゴラス』の際に、「あなたの演出はおとなしすぎるという意見が多く、この作品の監督を任せるについても強い抵抗があった。その辺を十分に考えて返事をしてもらいたい。どうしても、そういう演出が出来ないというなら断ってくれていい。前々からそういう意見があって、私もそれには同感だ」(本多猪四郎の日記より)と辞退を勧められたという[26]

1965年に他の監督に先駆けて東宝専属契約を解除されフリーとなり、1967年の『新婚さん』からはテレビシリーズの監督も行うようになる。『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』では、予算の都合などから本編・特撮1班体制となり、本多が特撮監督も兼ねる形となったが[24]中野昭慶によれば実際には監督助手の中野が特撮を手掛けており、本多は子役と怪獣が絡む場面のみ担当したという[27]東宝チャンピオンまつりで公開された過去の作品の再編集版は、本多自身が編集を行った[5]

1971年(昭和46年)に東宝を正式退社。円谷との縁から『帰ってきたウルトラマン』や『ミラーマン』などの円谷プロダクション製作によるテレビ作品の監督を務めていた[出典 15]

1975年(昭和50年)の『メカゴジラの逆襲』を最後に監督作品はなく[23][注釈 3]、その後はゴルフ場で再会した黒澤明の勧めで『影武者』以降の黒澤の映画を演出補佐として支えた[出典 16]。その主な仕事は子役を含めた演技指導やリハーサルの代行[29]1990年平成2年)の『』ではそれ以外にB班の監督や特殊効果面の指揮も務めていた[29]。70代を迎え助監督陣と大幅に年齢差が生じた黒澤の、同世代の補佐役として非常に重宝された。

現場への貢献度から『影武者』では共同監督としてのクレジットを黒澤から打診されるも固辞している。

まあだだよ』の撮影終了後、風邪をこじらせ1993年(平成5年)2月28日午後11時30分に呼吸不全のため、東京都世田谷区の病院で死去(享年81歳)[出典 17]。本多の墓には次のような言葉を刻んだ碑が立っている。

「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 映画のために力いっぱいに働き十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました 平成五年二月二十八日 黒澤明」。

妻のきみは2018年(平成30年)11月3日に死去した(享年100歳)[31]
作風
撮影『ゴジラ』のセットで(1954年)左端、半袖シャツが本多猪四郎。その隣で腰に手を当てているのが円谷英二である。その奥でカメラの後ろにいる人物は有川貞昌。

撮影技術、映画効果としての“特撮”に関わり続けた映画監督である一方、メロドラマ、サラリーマン喜劇、歌謡映画など幅広い作品がある。黒澤明が自分の作品に対して予算や時間のオーバーも辞さず、テーマや納得できる映像を追求した芸術家タイプだったのに対して、本多の作品は会社の求める企画を予算や時間を守って仕上げる職人タイプであった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:211 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef