本多猪四郎
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1939年3月にはスクリプターの山崎きみ(本多きみ)と結婚[8][13]。入社後には3度徴兵された。

特に最初に入営した歩兵第1連隊では将校が二・二六事件を起こしたことから、事件後の部隊が満洲に送られてしまい[8]、通常2年で済む現役が長引いた。復帰後は軍に再召集され、日中戦争に従軍。終戦は中国で迎え[8][13]、半年間捕虜となっていた[16][8]。この間、本多の兄弟はすべて他界していた。1946年、中国から引き上げてきた本多は汽車で帰郷中に原爆で壊滅した広島を目の当たりにし、強い衝撃を受けた[18]

8年間も軍にいたため[出典 11]、山本門下の3人のうち最も古参だったにもかかわらず、監督昇進は黒澤(1943年姿三四郎』)、谷口(1947年銀嶺の果て』)に先を越される形となっていた[19][注釈 1]1949年、短編ドキュメンタリー『日本産業地理大系第一篇 国立公園伊勢志摩』で監督デビュー[20][8][注釈 2]。本作は日本で初めて、本格的な水中撮影が行われた[21]1951年、本多が40歳の時にようやく『青い真珠』で劇映画を初監督する[出典 12]

太平洋の鷲』以降円谷英二とのコンビで多くの特撮映画を監督した[出典 13]1954年の『ゴジラ』は全米で大ヒットを記録したため、一躍世界に名を知られる映画監督となる[出典 14]。本多自身も『ゴジラ』を監督していなければ全く違う人生を歩んでいただろうとしている[16]。なお、『ゴジラ』では真夏の海上ロケを敢行したが、巡視船の上で上半身裸となって撮影に挑んだため、日焼けしすぎて背中に水ぶくれが出来てしまい、後年もその名残の染みだらけであったという[24]

1957年の『地球防衛軍』はMGM配給、1959年の『美女と液体人間』、1959年の『宇宙大戦争』、1961年の『モスラ』はコロムビア映画の配給、1962年の『キングコング対ゴジラ』と1967年の『キングコングの逆襲』はユニバーサル映画配給、1965年の『怪獣大戦争』と1966年の『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』はユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ配給で全米公開されるなど、担当した作品のほとんどが海外で公開された。なお、『キングコング対ゴジラ』では撮影中に斜面を30メートルも滑落してしまったが、負傷した腕を吊りながら撮影を続行したという。

しかしながら、プロデューサーの田中友幸からの評価は低く、1962年の『妖星ゴラス』の際に、「あなたの演出はおとなしすぎるという意見が多く、この作品の監督を任せるについても強い抵抗があった。その辺を十分に考えて返事をしてもらいたい。どうしても、そういう演出が出来ないというなら断ってくれていい。前々からそういう意見があって、私もそれには同感だ」(本多猪四郎の日記より)と辞退を勧められたという[25]

1965年に他の監督に先駆けて東宝専属契約を解除されフリーとなり、1967年の『新婚さん』からはテレビシリーズの監督も行うようになる。『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』では、予算の都合などから本編・特撮一般体制となり、本多が特撮監督も兼ねる形となったが[23]中野昭慶によれば実際には監督助手の中野が特撮を手掛けており、本多は子役と怪獣が絡む場面のみ担当したという[26]

1971年に東宝を正式退社。円谷との縁から『帰ってきたウルトラマン』や『ミラーマン』などの円谷プロダクション製作によるテレビ作品の監督を務めていた[出典 15]

1975年の『メカゴジラの逆襲』を最後に監督作品はなく[22][注釈 3]、その後はゴルフ場で再会した黒澤明の勧めで『影武者』以降の黒澤の映画を演出補佐として支えた[出典 16]。その主な仕事は子役を含めた演技指導やリハーサルの代行[28]1990年の『』ではそれ以外にB班の監督や特殊効果面の指揮も務めていた[28]。70代を迎え助監督陣と大幅に年齢差が生じた黒澤の、同世代の補佐役として非常に重宝された。

現場への貢献度から『影武者』では共同監督としてのクレジットを黒澤から打診されるも固辞している。

まあだだよ』の撮影終了後、風邪をこじらせ1993年2月28日午後11時30分に呼吸不全のため、東京都世田谷区の病院で死去(享年81歳)[29][11]。本多の墓には次のような言葉を刻んだ碑が立っている。

「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 映画のために力いっぱいに働き十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました 平成五年二月二十八日 黒澤明」。

妻のきみは2018年11月3日に死去した(享年100歳)[30]
作風
撮影『ゴジラ』のセットで(1954年)左端、半袖シャツが本多猪四郎。その隣で腰に手を当てているのが円谷英二である。その奥でカメラの後ろにいる人物は有川貞昌。

撮影技術、映画効果としての“特撮”に関わり続けた映画監督である一方、メロドラマ、サラリーマン喜劇、歌謡映画など幅広い作品がある。黒澤明が自分の作品に対して予算や時間のオーバーも辞さず、テーマや納得できる映像を追求した芸術家タイプだったのに対して、本多の作品は会社の求める企画を予算や時間を守って仕上げる職人タイプであった。『ゴジラ』もそうした会社から提示された企画の1つである。そんな黒澤と本多の違いを表現した言葉にこんなものがある。「“飯を作れ”というと、黒澤は食べきれないほどのフルコースを用意する。本多は綺麗に重箱に詰めてくる」

器用に何でもこなすことから、「本多ジアスターゼ」とあだ名されていた[31]

田中友幸によれば、本多は元々記録映画の制作を志望していたといい、『ゴジラ』も怪獣や人々の行動を丹念に捉えているためゴジラが実在しているかのようであったと評している[3]

演出は概して淡々として破綻がなく堅実である。特撮映画では最大の見せ場である特撮シーンに水を差すことなく、あくまで一歩下がった位置を守っている。本多は、特撮映画では本編と特撮の区分が見分けられないのが理想であるとしており、ドラマは特撮が効果的に生かされるよう仕立てなければならないとしつつも、ドラマ部分をないがしろにしてもならないと述べている[24]

怪獣からの避難者や原住民の踊りなど、群衆シーンにも定評がある[出典 17]。特技監督の中野昭慶によれば、群衆が逃げるシーンでの「緊急事態に出動する消防隊」「交通整理する警察官」「風呂敷を抱えて逃げる人々」といった描写は現実的ではないが、本多はそういったものを映すことで日常性を出すことを重視していた[33]


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