末日聖徒イエス・キリスト教会
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この破壊行為によってスミスは反逆罪の容疑で逮捕・収監された[20]。この時に暴徒2名が死亡し、1名が負傷した[20]ウィリアム・ウッドによれば、スミスらはその信仰が問題にされたのではなく、その犯罪行為によって逮捕されたという[20]1844年6月27日、武装し、暴徒と化した住民が監獄を襲撃した。末日聖徒イエス・キリスト教会の記録(教義と聖約135章)[LDS 4]によれば、ジョセフ・スミスは彼の兄ハイラム・スミスおよび後の末日聖徒イエス・キリスト教会の第3代大管長ジョン・テーラー並びにウィラード・リチャーズと共にイリノイ州カーセージの監獄に収監中、150人ないし200人とされる武装した市民の襲撃を受けた[LDS 4]。この襲撃で教会の創始者ジョセフ・スミスとその兄ハイラム・スミスは銃撃によって殺害された[LDS 4]
開拓者時代とユタ戦争

迫害を逃れて米国西部へ移住し教勢が拡大する。

1846年、末日聖徒の一団はイリノイ州よりアメリカ西部への移動を始めた。残留者グループは1860年に別教団を創設した。1847年7月24日、ブリガム・ヤングと末日聖徒の一団がソルトレイク盆地に到着した。以後この地に定住し、同時に教会の本部もソルトレイクとなった。ミシシッピ川を渡る難民

1857年9月11日、「マウンテンメドウの大虐殺」が発生し、これをきっかけにユタ戦争が勃発した。1858年、戦争は和平を模索する形で終結し、虐殺事件の首謀者らは取引として政府に引き渡され、全責任を負う形で銃殺刑にされた。詳細は「ユタ戦争」を参照
世界への伝道開始

ユタ戦争を決着し、世界に向けて伝道開始した。米国、ヨーロッパ、ポリネシア、オーストラリアを含む太平洋地域に組織が拡大した。日本には、1901年にヒーバー・J・グラント長老以下4名の宣教師が伝道し、9月1日に最初の奉献が行われた。1970年日本万国博覧会(大阪万博)には、パビリオンを出展した[21]
戦争に関して

末日聖徒イエス・キリスト教会の戦争に対する姿勢は「選択的平和主義」である[22]。これは暴力および武力に対して個々の場合によって賛成・反対を決めるという主義である[22]。19世紀のメキシコ戦争には派兵したが、南北戦争には参加しなかった[22]20世紀後半のベトナム戦争と1991年の湾岸戦争に対しては、アメリカ合衆国の多くのキリスト教教派が戦争に反対したにもかかわらず、末日聖徒イエス・キリスト教会は武力攻撃に賛成した[23]。ベトナム戦争の時は信者の海外伝道の義務より兵役を優先させた[23]
戦争に関する声明

末日聖徒イエス・キリスト教会は、戦争地域紛争に関して、キリスト再臨の日までなくなることはないという考えを持っており、個々の戦争や地域紛争に関して公式なコメントを出すことは稀である[要出典]。しかし、第二次世界大戦が勃発した1942年4月に、次のコメントを発表した。「教会は戦争に反対の立場である。いや反対しなければならない。主が新しい命令を下さない限り戦争を仕掛けることはできない。戦争が国際紛争を解決する正しい手段であるとみなすことはできない。国際紛争は平和的な交渉や調整によって解決しなければならない。国々が同意すればできるはずである。」[要出典]

さらに広島の原爆投下についてアメリカに対して非難の声明を発表した。第二次大戦終了後の1946年10月5日に公式の席で、当時の最高指導者会に属するJ.ルーベン・クラーク副管長が、以下のコメントを残している。「この戦争の最たる残忍性は、われわれアメリカ人が日本に原爆を投下して何十万もの民間人を消し去ってしまったことである。…関係者は今原子爆弾は間違いであったと言っている。それどころではない、あれは世界にとって悲しむべき惨事であった。…原爆の惨事で最悪のことは全米国民がそろってこのおぞましい大量虐殺を承認したことであった。」[要出典]

1991年の湾岸戦争のときに末日聖徒イエス・キリスト教会の最高指導者の一人トーマス・S・モンソンは「モルモン教会は常に国家に忠実であれと教えてきた。戦争の時には、われわれは国旗に忠実であることに躊躇しない。(中略)現在、三万五〇〇〇人のモルモン教徒が兵役についており、五四〇〇人がサウジ・アラビアに派遣されている。彼らは自由とアメリカ的伝統のために戦っているのだ。」と語った[23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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