木羅斤資
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 慶尚南道昌寧の古称で、『魏志』辰韓伝に見える不斯国にあたる(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 慶尚南道金海で、『魏志』倭人伝狗邪韓国上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 慶尚北道慶山の古称で、雄略天皇代から欽明天皇代にかけて、加羅・新羅両者の和戦問題にあたって重要な地点となる(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 慶尚南道咸安の古称で、『魏志』の弁辰の安邪国。広開土王碑に「安羅人戍兵」と見える。欽明天皇23年、任那の官家(ヤマトノミコトモチ)の滅亡と共に亡んだ(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 慶尚南道陝川の古称「大良」(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 欽明天皇5年3月条に㖨淳として見え、慶尚北道大邱にあった加羅諸国中の1国で、新羅に近接し、交通上の要地であった(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 慶尚北道高霊で、加羅国が新羅の領域となったのは欽明天皇23年で、任那諸国の中では最後まで新羅と戦った最有力国だった(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 古奚津は、全羅南道康津の地に比定され、忱弥多礼とは、すなわち済州島へ渡る要津であったと考えられている(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 全羅南道羅州にあてるのが有力(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 全羅南道金堤である(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 忠清南道新豊(忠清南道には新豊里(ko:???)が三つもある)の古称「伐音支」に比定する説があるが、一連の戦線からはあまりにも北方に離れすぎているので疑問視されている(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 全羅南道羅州郡(現:羅州市)潘南(朝鮮語版)の地と考えられている(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ ここでは、全羅北道井邑市古阜面(朝鮮語版)斗升山城(朝鮮語版)に比定されているが、百済始祖伝説温祚が都を建てて初めて王を称したという慰礼城や、雄略天皇20年条に引く『百済記』に見える慰礼や、『釈日本紀』に引く『筑前国風土記』逸文に、新羅の王子天日槍が降臨したという意呂山など、百済国の聖地を指し、必ずしも一定の場所ではなく、肖古王代ならば王都漢城が意流にあたるのではないかという説がある(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ a b 『日本書紀』に示された読みによる。なお、「スキ」とは古代朝鮮語百済語)で「村」を意味するという(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.304)。
^ 百済滅亡の時、鬼室福信の百済復興軍の拠点となった周留城、すなわち天智天皇元年3月是月条に見える疏留城(そるさし)、12月条に見える州柔(つぬ)にあたるという(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ 辟中すなわち全羅北道金堤付近の山城とされている(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。
^ a b 『日本書紀』に示された読みによる(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.304)。なお、「ムレ」とは古代朝鮮語で「山」を意味し、古語(中期朝鮮語)や方言として残る固有語「?(山)」の更なる淵源ではないかと推測されている。
^ 全羅北道古阜(朝鮮語版)にあたるという(上掲, 『日本書紀I』, 2003, p.310)。

参考文献

千寬宇(:ko:???)
『伽耶史研究(?????)』一潮閣(???)、1991年。 

李熙真(:ko:???)『伽耶政治史研究(???????)』学研文化社(?????)、1998年。 

盧重国『百済社会思想史(???????)』知識産業社(?????)、2010年。 

金鉉球『任那日本府説は虚構なのか(??????? ????)』(株)チャンビ((?)??)、2010年。 

井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生 訳『日本書紀I』(再版)中央公論新社〈中公クラシックス〉、2010年、303-304,307-308,310頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 9784121600578。 

関連項目

近肖古王

木満致

任那日本府説 - 伽耶(任那)地域に置かれていたヤマト朝廷の軍事・外交出先機関とされる(実際には確立された行政機関ではなかったようである)。征韓論の根拠の一つとされた経緯から、今日の韓国史学では日本の支配や侵略を正当化するような印象がある(記事名に「説」が付いているのもそのため)。

朝鮮半島南部の前方後円形墳 - 馬韓残存勢力または任那日本府と何らかの繋がりがあるのではないかと推測される日本の前方後円墳を摸した古墳。

記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef