木田優夫
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肘のリハビリで出遅れたものの5月8日対近鉄バファローズ5回戦にて移籍初先発登板し1996年8月6日対阪神タイガース20回戦以来の先発で勝利した、後半戦最初の3連戦で先発しノックアウトされると抑え投手として起用され、自己最多の16セーブを記録する(リリーフでの成績は24試合、1勝1敗16セーブ、防御率1.83)。オフにフリーエージェント権を行使した。
タイガース(大リーグ)時代

1998年11月23日にデトロイト・タイガースと2年300万ドルで契約[5]。日本人8人目のメジャーリーガーとなった。タイガースの入団会見では羽織姿で登場し、「ロボコップに会えなくて残念(映画の舞台がデトロイトであることから)」とジョークを飛ばして報道陣の笑いを誘った。

1999年、開幕はAAA級トレドで迎えるが、4月5日のテキサス・レンジャーズ戦の8回に登板しメジャーデビュー。4月は8試合の登板で防御率7.24、WHIP1.61と振るわなかったが、4月後半から好投を見せる。5月16日のクリーブランド・インディアンス戦では7回から登板し3イニングを投げメジャー初セーブを記録し、5月は15試合の登板で防御率3.71、WHIP1.47を記録。6月14日のシアトル・マリナーズ戦でメジャー初勝利を挙げる。しかし、6月29日に左わき腹を痛め、7月1日に日本人初の故障者リスト入りする。28日に復帰するが、その後は好投と乱調を繰り返し、復帰後は15試合の登板で防御率8.30、WHIP1.40を記録しシーズンを終える。シーズン終盤には先発での登板を打診されたが、「やめた方がいいです」と自ら断ったことを帰国後の会見で語った。

2000年、AAA級トレドで開幕を迎え、5月8日にメジャー昇格。10日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦では野茂英雄と継投したが、17日のインディアンス戦で3点本塁打を喫し、19日にトレドに降格。6月9日にタイガースとの契約を解除された。
オリックス復帰

オリックス・ブルーウェーブに復帰。マイナーリーグ時代は「野球だけじゃなく生活面でも苦労し、その苦労により白髪も増えた」と言い、「日本よりメジャーにいる時の方が3倍の早さで年を取る」とも語っていた。

オリックス復帰後2年間はリリーフでの登板だったが前回在籍時のリリーフでの安定感を取り戻せず2001年オフにオリックスを自由契約となり、数球団の入団テストを受けるも不合格。
オリックス退団後

2002年は腰痛治療のため、どの球団にも所属しなかった。
ドジャース時代

2003年ロサンゼルス・ドジャースと契約し再び渡米するが、3月に交通事故により全治6週間の重傷を負う(8月にメジャーに昇格)。
マリナーズ時代

2004年9月にシアトル・マリナーズへ移籍。

2005年、投法をサイドスローに改造したが、メジャーでは1試合しか登板できず自由契約となった。
ヤクルト時代

2005年オフに新監督に就任した古田敦也の誘いを受け東京ヤクルトスワローズに入団。

2006年は中継ぎで56試合に登板し、リーグ4位となる23ホールドを記録。また、監督推薦で16年ぶり2回目のオールスターゲーム出場(15年間のブランクは歴代最長記録)。

2007年にも50試合に登板する。

2008年は開幕時に一軍入りできなかった。二軍では先発としての起用が主だったこともあり、交流戦明けの7月に先発として一軍昇格の話もあったが、結局一軍合流は8月下旬までずれ込んだ[6][7]

2009年はオープン戦の先発で好投をし、プロ入り後初めて開幕先発ローテーションに入り[8]、4月8日の対中日ドラゴンズ戦で5イニングを投げ、3失点したが自身11年ぶりの先発試合を白星で飾った[9]。5月以降はリリーフに回るも、防御率5.55と打ち込まれ、2度の二軍落ち。10月2日にヤクルトから戦力外通告を受けた。
日本ハム時代日本ハム選手時代(2012年)

2009年11月27日に北海道日本ハムファイターズへ移籍[10]。単年契約で、推定年俸1000万円[11]。背番号は42[12]

2010年3月22日の対福岡ソフトバンクホークス戦にて、先発のボビー・ケッペルが故障のため降板したのを受けて緊急登板し、5イニングを無失点に抑えて移籍後初勝利[13]。5月4日には通算500試合登板を達成した[14]

2011年2012年はシーズン通して二軍生活が大半を占め、2年間で計4試合の登板に留まった。2012年11月4日、球団から退団することが発表された[15]
BCリーグ・石川時代

2012年12月21日に石川ミリオンスターズへの入団が発表された。

2013年は石川ミリオンスターズで主にクローザーとして活躍。公式戦72試合中、実に52試合に登板し3勝1敗15セーブ、防御率1.76でチームの前期優勝に貢献。その後地区チャンピオンシップ、BCリーグチャンピオンシップ、日本独立リーグ・グランドチャンピオンシップ2013でも登板し独立リーグ日本一の胴上げ投手となった。シーズン終了後に静岡県草薙総合運動場硬式野球場で行われた12球団合同トライアウトに参加。打者4人に対し2奪三振の好結果を残したもののNPB球団との契約には至らなかった。12月9日にはミリオンスターズのゼネラルマネージャーに就任。2014年、NPB復帰を目指し、ミリオンスターズで投手兼ゼネラルマネージャーとしてプレー。前年と同じく抑えを任されたが、8月24日に金沢市内のホテルで会見を開き、同年限りでの現役引退を発表した。9月13日の福井ミラクルエレファンツ戦(石川県立野球場)では友人である明石家さんまが臨時コーチを務め、試合終了後に退団式と称して球場を1周した。翌9月14日の群馬ダイヤモンドペガサス戦(石川県立野球場)で引退試合を行い、背番号12番はミリオンスターズの永久欠番となった。
引退後

2015年から、北海道日本ハムファイターズのゼネラルマネージャー補佐に就任[16]

同年3月4日、札幌ドームでの巨人とのオープン戦試合前にNPB引退セレモニーが行われ、原辰徳との一球勝負で空振りを奪った[17]

2017年10月26日に行われたプロ野球ドラフト会議にて4年連続で外れクジを引いた監督の栗山英樹の代わりに日本ハム球団のくじ引き役を務め、1巡目指名で7球団が競合した清宮幸太郎の当たりくじを引き当てたことにより話題の人となった[18]

2019年シーズンからは一軍投手チーフコーチとして現場に復帰。2020年は一軍投手コーチを務めたがチーム防御率は4.02は2004年以来16年ぶりの4点台に低迷し[19]2021年は二軍総合コーチ兼投手コーチ[20]に配置転換となった。2022年からは二軍監督を務めた[21]

2022年7月、一軍で新庄剛志(BIGBOSS)監督が新型コロナウイルスに感染し、その後監督代行を務めた山田勝彦も感染したことから、2022年7月20日から同25日まで、一軍の監督代行を務めた。


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