清時代には、膨大な編纂事業が宮廷によって行われた。四庫全書は写本であり、1万巻という中国史上最大の類書 (百科事典) である古今図書集成は銅活字印刷、武英殿聚珍本は木活字印刷であったが、全唐詩900巻など他の多くの本は木版印刷であり、また活字本も再版の際は木版印刷で刊行された。並行して民間でも官僚・蔵書家によって知不足斎叢書 (206種計802巻) などの大きな叢書が刊行されている。また、厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』746巻のような、文献・記録の大きな集成が刊行されて、現代の古典研究にも貢献している。清代末期では、地方の役所が「書局」を設けて古典を出版した木版印刷本 (局本) が多い。
19世紀末、石版印刷が上海を中心に普及し、更に活版印刷が普及した結果、木版印刷は衰退した。うつほ物語ACE1809
日本では、百万塔陀羅尼以降、約2世紀の間印行の記録がないが、平安時代に「然によって、北宋から勅版一切経がもたらされた986年以後に摺経供養が流行した。これは法華経などを多量 (藤原道長の場合は1,000部) 印刷することで功徳を積もうという宗教事業である[16]。この摺経は薄い墨が多いが、その後、鎌倉時代までに興福寺から刊行された春日版は漆のような濃い墨の精良な印刷経である。寛治2年 (1088年) の成唯識論 (正倉院所蔵) が、現存する平安時代で最古の刊年記のある印刷経である[17][18]。その後も鎌倉時代・室町時代の五山版などの寺院版が印刷、ひいては木版印刷の主流であった。ただし、一切経の刊行は、平安・鎌倉・室町時代にはなく、写経で一切経を行うことのほうが多い。また、民間出版の先駆である堺版、地方の武家による出版 (大内版、日向版、薩摩版) もあった[19]。平安時代から室町時代までの出版物のほとんどは仏教関係の著作や経典である。桃山末期から江戸時代初期にかけては、一時嵯峨本などの古活字本やキリシタン版などの活版印刷が盛んになった。このとき初めて『伊勢物語』『徒然草』など仏教関係でない漢字ひらがな混じりで書かれた本が多数印刷された[20]。しかし、寛永期を境に、再び木版印刷 (整版) が主流となってくる。出版社、書店、貸本屋が発達し、浮世草子や黄表紙などのベストセラーが生まれ、ガイドブックや俳書、浄瑠璃本なども盛んに刊行され、一般に広く書物が普及するようになった[21]。また、武士の学問所むけに漢籍を初めとする教科書・学術書も多数刊行された。明和ごろから、浮世絵版画の発達と並行して多色刷り本も現れた。漢籍ではない日本の書物の最も大きな叢書として群書類従がある。
ヨーロッパで発明された印刷術が19世紀末に普及し始めると、新規刊行物の印刷術として木版印刷が選ばれることはほとんどなくなっていった。 北宋時代に活字が発明されたが、中国と日本では、印刷の主流は木版印刷であった。活字を用いる活版印刷が普及しなかった理由としては、ラテン文字26文字で文章を構成できる欧米と異なり、和文、漢文では使用される文字が数万種類に及び、文字の種類に見合う数万点の活字をあらかじめ準備するのが困難だったこと、むしろ職人がその都度彫り上げる木版の方が自由度も高く効率的であること、紙型がなかった時代には増刷が不可能だったこと、日本では漢字とかなを複雑に交えた文章が好まれたことにある。 明治初期が木版印刷から活版印刷への移行期である。『学問のすゝめ』や『西国立志編』など当時のベストセラーも木版印刷・和装の本であった[22]。1877年 (明治10年) 、秀英舎 (のちの大日本印刷) が刊行した『改正西国立志編』が活版印刷・洋装本を広めるきっかけになった。
活版印刷との関係
出典・脚注^ 藤井 1991 第5章
^ 鈴木敏夫 1980 pp29 - 33
^ 銭存訓 第6章
^ 高橋智 2007
^ 米山 pp159-160:明の「太祖は洪武15年 (1382年) 国子監を設立し。そこに元の西湖書院に伝えた宋・元時代の旧刻を利用し、補修を施して印刷を行った。それがいわゆる宋刊明修・元刊明修と称される」
^ 長沢規矩也 1960 pp20