小さい頃からお調子者だったが、母によるとちゃんと言うことも聞くなど、素直で手のかからない子供だったという[19]。友人、特に女子を楽しませるなどサービス精神が旺盛だったようであり、母が家の庭で長らく育てていたサクランボの木に初めての実が付いた際、そのたった1個の実を女子に声をかけて食べさせたという[19]。母曰く反抗期も無かったようであり、木村本人は「母は厳しかったが、尊敬していたため、反抗することは無かった」と語っている[19]。基本的にテレビ、漫画の無い家だったため、子供の頃はアニメもほぼ観たことがなかったといい、声優にも全く興味が無かった[19][20]。 日本語を覚えていく中で母は「せっかくなら楽しみながらできれば」と考え、家の近所の劇団日本児童へ所属する[19][21]。「やりたいこと何かないかな?」と思っていた時、新聞に児童劇団の募集の広告が入っており、それを見て母も「いいんじゃないの」と言ったことから、単純に面白そうと思って入団オーディションを受けたのが演技のきっかけである[11]。 芝居のレッスンに熱中して、劇団の発表会のミュージカルのアンサンブルをやったりしてしていた[19]。前述の通り、お調子者で目立ちたがり屋の性格で、人前に立つことが好きだったという[20]。人前に立って何かを表現して、「見た人に何かしら感じ取ってもらいたい」「ジャングルクルーズのお兄さんになりたい、ミュージカル俳優になりたい、ラッパーになりたい」という夢のようなものを持っていたという[22]。 特に興味が強かったのはミュージカル俳優だったが、両親がオペラ歌手だったため「オペラもいいな」と思っており、両親もやってほしかったのかレッスンをさせたという[22]。しかし同じ道をたどると「両親を超えられない」と思っていたため、「超えるためには別の道を」と考えるようになった。そこで「もうオペラはやりたくない!」のような両親に反発する意味もあり「ミュージカルで行こう」と思っていたという[22]。 2002年ミュージカル・『アニー』でタップダンサーとして出演し、キャリアをスタートさせた[11][17]。 小学生のころに、ものまね番組『まねキン』(日本テレビ)に羽賀研二に似ている小学生として出演。そのことがきっかけで『ものまねバトル』(日本テレビ)で「ミニミニ羽賀研二」という名前で何度か出演した[23]。 2005年4月15日よりテレビ朝日系テレビアニメ『ドラえもん』にて、たてかべ和也に代わりジャイアンこと剛田武の声を担当し、声優デビュー[12][13][14]。当時も児童劇団に所属していたが、声優経験は無かった[24]。『おはスタ』のおはキッズとして出演していたため、その司会者である山寺宏一は知っていたが、声優だったことは無知だったという[25]。オーディションを受けた理由は「クラスの人気者になりたかったから」とのこと[24]。ミュージカル俳優をするにあたり、色々なことを経験する人物が得られることが多いと考えており、中学2年の時に『ドラえもん』のキャスト一新を聞いて、「そのオーディションがいいエネルギーになる」と思っていたという[19]。当時所属していた児童劇団のマネージャーに「オーディションを受けたいんですけど、受ける方法はないですか?」と相談して、受けさせてくれたという[25]。当時は受かるとは思っておらず、ダメもとの記念受験のつもりだったという[22]。ジャイアン役を選んだ理由については、記念受験ぐらいの心持ちとはいえ、ドラえもんは「ビッグネーム過ぎるな」とビビってしまい、しずかものび太もスネ夫も、自身の性格とだいぶ違うため、「少し入り込めないなぁ」と考えて、割とポンポンと「ジャイアンしかないな」と決めたという[22]。『ドラえもん』自体は知っており、「ドラえもんのオーディションを受けた」と割とクラスでも「ヒーローになれるでしょ?」という気持ちもあり、クラスを盛り上げたい思いだけで受けたという[19][24]。それまで子役のオーディションしか受けたことがなかったため、「まわりも子役ばかりだろう」と考えていたが、スタジオに着くとプロの声優がおり、そのオーディションには後の先生役の高木渉まで並んでおり、「やばい、とんでもないところに来てしまった……」と場違いな雰囲気を感じていたという[12][23][25]。
キャリア