審査員は、声だけで判断をしていたそうで、会場に来るまで年齢、経歴を伏せられており、順番が来て「14歳です」と言っていた途端、アニメのように「えー!」とリアクションがあったという[12]。グループオーディションではスタッフから、「オリジナルのジャイアンを作ってきてください。先代の物真似はしないでください」というお題が用意され、どう声を演じていたら良いか分からなかった[23]。他参加者が以前のジャイアンの声に影響されてしまったのを見て「自分のジャイアン、ブレるブレる!」と焦ってしまい、心が折れてしまいそうだったという[23]。しかし「このまま帰るのなんか悔しい」という思いを胸にがむしゃらにオーディションへ挑んだ結果、ジャイアン役を獲得したという[23]。後で聞いたところ「あんな人初めて見た(笑)。でも、ジャイアンに見えたんだよね」といってくれたという[12]。『ドラえもん』の新声優陣のことも無知で、合格発表の時に新キャストが集められたが、「ここでも子役の先入観があって。自分と同じで他のみんなも今日デビューで、初めて声優をやる人たちでしょう」と勝手に思っていたという[25]。「スタートラインがみんな一緒だったら、一番若い俺がめっちゃ有利じゃん」と思い、「俺めっちゃすごいじゃんと。俺、デビュー早!」のように、少し一瞬、調子に乗っていたという[25]。その時、「大人に舐められちゃいけない」ということで、スネ夫役の関智一のところに行き、「お名前何でしたっけ? 関さん、覚えました。関さん、男同士頑張りましょう!」と握手を求めたという[25]。
家に帰り、関のことを調べたところ、以前から声優として活動していたことに驚いたという[25]。次に会っていた時に、「先日は大変失礼なことを申し上げました」と謝り、その時に、「この人に一生ついていかなきゃ!」と思っていたという[25]。ジャイアン役は「大人になってから周囲に自慢しよう」と思っていたが、3月にジャイアン役が公になってからは同級生や先輩後輩から「ジャイアン(先輩)」と呼ばれるようになり、「剛田武(=ジャイアン)として生きていく」ことを覚悟する[12]。高校卒業までの6年間はジャイアンしか演じていなかったという[25]。高校卒業して、色々な作品に挑戦しようと思っていたが、ジャイアン以外の声が出せず、オーディションで合格した作品でも、ジャイアンになってしまったという[25]。
先代のジャイアン役のたてかべは「ジャイアン役を継いでくれる人と酒を飲みたい」と考えていたが、この当時木村はまだ中学生だったためがっかりしたものの、「あと5年は長生きして一緒に飲みたい」と語った。そして木村が成人して5年近くの月日が流れた2014年、一緒に飲みに行くことが実現した[26]。しかし2人で飲み交わす機会はこれが最初で最後となり、たてかべは2015年6月に死去。その際、木村はツイッターにたてかべを追悼するメッセージを投稿した。
関智一のことを「師匠」と語っており、慕っている[27]。高校卒業を間近に控えていたころ、舞台の芝居に興味を持った木村は、関が座長を務める劇団ヘロヘロQカムパニーに誘ってもらうため「365日芝居のことを考えていきたい。一端の声優になりたいんですが、どうしたらいいんですか?」と関に相談したところ、「それなら劇団を作ったら?」と助言を受ける。木村としては自分の師匠である関なら快く誘ってくれると思っていただけに予想外な返事で呆気に取られたが、師匠の言葉なら間違いないと高校卒業直後の2009年に木村自ら座長となって劇団を旗揚げし、座長の師匠である関から「天才劇団バカバッカ」と命名された。一方、木村から相談を持ち掛けられた当の関本人は「ボケのつもり」で上記の返事をしたとのことで、「無理ですよ?」「だよね?」という感じのノリで終わると思っていたところ、即座に木村が劇団を立ち上げるとは思っていなかったと笑いながら語っている[28]。
たてかべからジャイアン役を引き継いでからはジャイアン役に専念していたが、2011年のアニメ『輪るピングドラム』に高倉冠葉役で出演し、声優としての転機となる[30]。